新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

ホームレスを「障害者」として考える

「ニューホームレス」とは家を持たずに日雇いの仕事で収入を得て、ネカフェやホームレス宿泊施設で寝泊まりしてる人達です。
母親の病気の治療の為に実家を貸家にして、治療費用に当てながら、日雇いの仕事を続けて、ホームレスの宿泊施設(1780円/日)に寝泊まりする。一食500円以内に抑えて、週6日働いても貯金が貯まらない。しかし、毎週日曜に秋葉に行って、メイドカフェで馬鹿高い金を使いまくる。しかも、病気の母親には一度も仕送り無し。終いに、『やっぱ国からの援助は欲しいですよねぇ〜』とか吐かす始末。

中毒サンの政治・経済俺にもいわせろッ!!〜これがおれの意見だ!オヤジの一刀両断ッ〜:どう判断しますか? - livedoor Blog(ブログ)


どうしたらいいとか誰がわるいとか自己責任とかそういう話はちょっとおいといて、おれはこの貧困自体はさして現代的だとは思ってなくて、現代的なのは「貧困層が可視化した」というところにあるんじゃないかなーっておもう。可視化っていうのは、昔からいた貧困層の存在がその層でない人にも見えやすくなったっていうことだけでなく、ある特定の人たちに押し付けられていた貧困がほかの集団(たぶんメインストリームの集団)にも及んできたために、みんなが「自分のこと」として貧困を意識しだしたという感じ。
とはいえまだ、実際に貧困になってない人が少なくないわけで。そのためまったく知らない他人の貧困ではないけども「自分のこと」ではないために、「自己責任」と言い放つことができると。あるいは逆に意識しているがために「自己責任」と言い放つことで、自分が貧困に陥ることはありえないという信じ込んで安心感を得ると。たぶん多くの人は貧困を放置していいと思わないだろうし、その方が安心して暮らせると思うがなあ。最低限の収入をみんなに確保させるくらい税金バンバン使えばいいと思うけどねえ。その方がみんな安心して消費するかもしれないし、安心して新しいビジネスを手がけたりできるかもしれない。社会も安定するだろうし。そういう意味で結果的に貧困に陥らなかった人にも多大なメリットがあると思うんだけども。
そういう多大なメリットがあるよと言い方ではなく、かわいそうな貧困な人がいるとか社会が悪いからだとかそういうネガティブな言い方をするだけでは、なんだかいつまでも変わらない気がする。ネガティブな指摘ばっかされると、人は反発したくなるってもんだ。

http://d.hatena.ne.jp/strange/20070304/p1


またワシの話をする。ワシがガキの頃の昭和50年代の北九州は、高度経済成長が終わり、オイルショックと鉄冷え不況の真っ只中だった。街には浮浪者が普通に居た。「ああなっては終わり」「貧乏は嫌だ」と強烈に心に刻まれた。また被差別部落も多数あり、そういった最下層から抜け出すにはヤクザのチンピラになるか、土方でタコ部屋に入って稼ぐしかなかった。でも決して上等なものではないが、「受け皿」があったのだ。
ところが今はどうだ。ヤクザは悪い面ばかりクローズアップされ、フラフラしている若者の矯正機関としての役割を破壊された。土方は「3K」とかぬかして敬遠される。ホームレスの癖に「人権」があると思い、強制されることを嫌がる。
思うがな、ワシらの人生において、人からの強制無しに自分だけで決断して行動することって本当にまれだぞ。例えばお前が高校・大学受験のとき、志望校を決めるわな。それって本当にお前の意志で決めたか? 先生が薦めたからとか、偏差値がマッチしたからとかの理由じゃないか? 就職するときも、本当にその仕事がしたくて決めたか? なんとなく格好いいとか、給料がいいとか、親や学校に薦められたとかじゃないか?

「ニューホームレス」という生き方


少なくともこのビデオに出てくる二人は、これまで自分の意志で人生を決めてこなかったように見える。でも仕事を辞めるときだけは自分の意志。それも「なんとなく」「めんどくさい」「だるい」そういった理由で仕事をやめる。「腰を痛めた」なんて理由にならない。だったら経理でも総務でもやらせて欲しいと何故しがみつかない。花市場をやめるならば、何故次の就職先を決めてからにしない。結局彼は今の生活にそこそこ満足しているのだ。4500円もあればユニクロ上着が買える。まともな服装もしていないものに、誰が仕事を紹介しようとするか。将来のための投資よりもメイドの方が良いのだ。なぜならそこでは「ご主人様」現実から逃避できるのだ。そしていざ現実と向かい合うと、悪いのは「社会」。そして「国が何とかしろ」。
パチンコの彼もそうだ。自分が相手に認めてもらえない。当たり前だ。今の自分に何か認めてもらえるものがあるとでも思っているのか。「仕事はしたいが、人に使われるのは嫌」自分が人に使われる、むしろ「安い機械」として使われることを認めたくない。だって学校では「平等」って教えられたもん。貴重なカネをパチンコに投資し、勝ったら酒を飲む。「カネがあるときには我慢せず欲しいものを買う」それが彼らの生き方。

カプセルホテルから「健康食品営業」に転職しようとしたコウジ


ワシは若い時カプセルホテルでバイトをしていた。バイトを始めて3ヶ月目くらいの時に入ってきたのが18歳の「コウジ」だ。こいつは本当にバカだった。何をやらせても物覚えが悪い。まるで中学生のようなしゃべり方。おそらくはシンナーだろう、笑うと醜く歪んだ歯が印象的だった。どうにも使えないやつだったから、完全な単純作業しかやらせなかった。とにかく邪魔だけはしないでくれ、と思っていた。
ある日、エレベーターに「矢島工務店」という落書きがされた。バカな客がやったのだろうと、道具を持ってきて消した。次の日、また同じような落書きがある。道具を取りに行くと、なんと倉庫にも同じ落書きがあるのだ。そう、彼は従業員にも関わらず、自分の職場、そして客の目に付くところに落書きをしたのである。こんな非常識なバカは見たことが無かった。ブチ切れて彼の寮部屋に乗り込んできつく説教し、すぐに消すように命じた。ブツブツと口答えしたが張り倒して「主任に知られる前にやれ」とやらせた。

この時から彼は仕事が嫌になったのだろう。仕事中に転職・アルバイト情報誌を読むようになった。そしてある日突然寮から姿を消した。2ヵ月後、「健康食品販売会社」から連絡があった。「給料を前借した挙句、仕事に来ない。前はそちらに居たそうだが、連絡は無いだろうか?」数日後、寮の部屋に置いたままにしてあった荷物を取りにのこのこと現れたところを捕獲された。話を聞くと、「仕事は健康食品のルート営業で飛び込みは無いと聞いていたのに、そうじゃなかった。支度金に目がくらんで、面接に行った」とのことだった。どうしうようも無いほど典型的なバカである。
カプセルホテルにも借金があった彼に、主任がこれからどうするつもりかを聞くと「ホストになる」。ワシはもうあきれ果てていたが、主任は違った。「今よりレベルをさらに下げてどうするんだ。あてが無いなら、とりあえずここで働いて借金を返せ。それから次を考えろ」と諭した。
その月にワシは「こんなところに居たらとんでもないことになる」と思い、主任に相談し仕事を辞めることにした。主任も「こんなところには長く居るもんじゃない」と言ってくれた。

ダメ人間には強制力を持つ受け皿が必要だが…


自分の人生ですら真剣に考えずにゆりかごから墓場まで人任せ。それが世界最高の国家社会主義国であるニッポンだった。しかしここに来て少し状況が変化している。クズのダメ人間の受け皿だった組織や人間が居なくなったのだ。話したように、昔はヤクザの親分や兄貴、あるいは飯場の親方のような面倒をみる者が居た。しかし彼らのようなやりかたは「ニューホームレス」には受け入れられない。なぜなら彼らは「強制」されるのが大嫌い。だからといって、自分で計画的に行動するような能力もやる気も無い。つまりは彼らに何か出来ることは一つも無いのだ。

共同作業所という受け皿

「ニューホームレス」はまだどん底じゃない。彼らは今の生活に満足しているのだから。でも、もっと歳をとればさらに条件は悪くなり、脱出は不可能になる。そこで最後の社会的受け皿として「共同作業所」を用意する。そう、障害者が「社会参加・復帰」を目指す場所だ。
もはやこのレベルのダメ人間は障害者として扱うしかないように思うのだ。共同作業所で障害者をサポートしながら共に働く。障害者ががんばっているの見て、わが身を振り返り立ち直り「社会復帰」する、ってのが理想なのだが、それは障害者が「社会復帰」するのと同じくらい難しいことだろうな。

関連:「働く」上で何が障害となっているか

精神障害者が「働く」ことを困難にしている障害は以下の点である。

  • 第一に働くために必要な能力の低下
  • 第二に能力低下した自己の受容(障害受容)の困難性
  • 第三に社会の偏見と支援する社会資源の不備である

第一点目にあげた能力低下には、臺のいう「生活のしづらさ」と呼ばれる能力障害があげられる。1.日常生活の仕方のまずさ、2.人づき合いのまずさ、3.就労能力の不足、4.生活経過の不安定性、5.生きがいの喪失・動機づけの乏しさなどであるが、これらはいずれも「働く」上で大きな障害となっている。さらに若年発病者は暦年齢に比べて社会経験が未熟であることや、長期在院によるホスピタリズム、薬の副作用も障害となっている。

 第二点目の障害受容の困難性には、二つの側面がある。現実検討能力や認知能力の低下により、現実の自己像を認知しづらいという側面。もうひとつは価値意識の問題である。精神障害者にとって確固たる立場や地位にこだわるのは、自己の存在基盤の不安定さから逃れられる拠りどころが欲しいのではないか。以前出来ていたことが出来なくなったということを、はっきり認めるためには代わりに自己の尊厳を保つ拠りどころを捜さなければならない。簡単に新しい生き方を捜しだすことは困難であり、その見通しもないまま過去の自分に対する「こだわり」を捨てろといわれても難しい。このことは職業選択の上で、自己の能力以上の職業に固執するという形で現れることが多い。無理な就職を繰り返し失敗することは、過大なストレスとして再発の危険性を高め、極端な自信喪失に陥る場合もある。また逆に見通しのないまま「あるべき自己像」を放棄した人や、そもそも社会との関係が希薄で「あるべき自己像」の形成が弱い人は、社会との関係を深めて自己形成を図ろうという意欲自体が低下していることも多い。このことは「自己価値の再編」を行い、自己の障害状況に見合った生き方を選択することをいっそう困難にしている。

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r070/r070_009.htm

 ホームレスが「働く」ことを困難にしている障害は以下の点である。

  • 第一に働くために必要な能力の低下
  • 第二に能力低下した自己の受容(障害受容)の困難性
  • 第三に社会の偏見と支援する社会資源の不備である

第一点目にあげた能力低下には、臺のいう「生活のしづらさ」と呼ばれる能力障害があげられる。1.日常生活の仕方のまずさ、2.人づき合いのまずさ、3.就労能力の不足、4.生活経過の不安定性、5.生きがいの喪失・動機づけの乏しさなどであるが、これらはいずれも「働く」上で大きな障害となっている。さらに若年ホームレスは暦年齢に比べて社会経験が未熟であることや、長期の宿無し生活によるホスピタリズムも障害となっている。

 第二点目の障害受容の困難性には、二つの側面がある。現実検討能力や認知能力の低下により、現実の自己像を認知しづらいという側面。もうひとつは価値意識の問題である。ホームレスにとって確固たる立場や地位にこだわるのは、自己の存在基盤の不安定さから逃れられる拠りどころが欲しいのではないか。以前出来ていたことが出来なくなったということを、はっきり認めるためには代わりに自己の尊厳を保つ拠りどころを捜さなければならない。簡単に新しい生き方を捜しだすことは困難であり、その見通しもないまま過去の自分に対する「こだわり」を捨てろといわれても難しい。このことは職業選択の上で、自己の能力以上の職業に固執するという形で現れることが多い。無理な就職を繰り返し失敗することは、過大なストレスとして再発の危険性を高め、極端な自信喪失に陥る場合もある。また逆に見通しのないまま「あるべき自己像」を放棄した人や、そもそも社会との関係が希薄で「あるべき自己像」の形成が弱い人は、社会との関係を深めて自己形成を図ろうという意欲自体が低下していることも多い。このことは「自己価値の再編」を行い、自己の障害状況に見合った生き方を選択することをいっそう困難にしている。

 第三点目の社会の偏見と、支援する社会資源の不備が、「働く」上での障害となっているのはいうまでもない。他の障害分野でさえ職場開拓は困難である。ホームレスは理解できないという偏見がつきまとい、いっそう困難を伴う。社会の偏見は、ホームレスであることを本人が職場で隠さなければいけないというストレスも生んでいる(職場の同僚とテレビの話が出来ないなど)。また支援する社会資源の不備は、これらの悪状況の軽減を図る機会の不足につながる。ホームレスは慢性期に入っても長期に職が安定し続ける人は少ない。継続的な支援をする社会資源が身近にないことは、無職の危機に適切な援助を受けられず、いっそう状況を悪くする可能性すらある。