重度障害者の命の価値は「ゼロ」なのか?
(息子を亡くした母親)「息子の障害児の命って何なのでしょうか?命の尊厳どころか生きている価値さえないと言われているようなものです」
2005年8月、重度の障害を持った男性がバスを降りた際、ヘルパーが目を放した隙に道路へ飛び出し、乗用車にはねられ死亡した。当時17歳の長男に対して、運転手の保険会社が示した賠償額は意外なものだった。「逸失利益」、つまり、長男が生きていれば、将来に得られたはずの収入を「ゼロ」と算定したのである。長男には重度の障害があり、仕事はできないということが、その理由であった。
長男の両親は、命の対価とされる逸失利益が、障害者という理由でゼロなのは明らに不当、差別だとして、加害者の運転手らを相手取り、同年代の健常者と同じ逸失利益を含む、およそ7300万円の損害賠償を求めている。息子を亡くした長男の母親と、弁護士は被害者の労働能力を重視しすぎる、今の損害賠償額の算定方法に問題があると訴える。
(息子を亡くした母親)「今まで障害者の逸失利益0円と言われれば、どんなに悔しくても泣き寝入りするしかなかったと思います。障害者の人権を認めてもらい。もう悲しい連鎖は断ち切りたい、そのような気持ちで一杯です」
(小林記者)「将来の収入を基本とした、損害賠償額算定の考え方に一石を投じる裁判。"命の対価"に差があるのか、という根本的な問題を投げかけています」
「命の対価」で遺族が提訴 - 2007年4月6日(金)「どさんこワイド180」
「逸失利益」を実際に計算してみる
1.保険会社の算定根拠「重度の障害で将来の収入は見込めず『0円』」で計算
年齢 17歳
年収 0円
生活費控除率 30%
ライプニッツ係数(年利率:5%)を選択
17歳から60歳まで43年間に対応するライプニッツ係数 17.54591
17歳から18歳まで1年間に対応するライプニッツ係数 0.95238
【計算式】
0×(1-0.3)×(17.54591-0.95238)= 0円
2.被害者の両親の主張「同年代の健常者と同じ逸失利益」で計算
学歴=高卒、就労可能年限=67歳、あとはデフォルト。
年収 4,598,600円
【計算式】
4,598,600×(1-0.3)×(18.25593-0.95238)= 55,700,473円
5570万円
3.ワシの考える「最低基準」で計算
学歴=中卒、就労可能年限=60歳、性別=女性で計算
年収 2,665,200円
【計算式】
2,665,200×(1-0.3)×(17.54591-0.95238)= 30,957,553円
3096万円
共同作業所の実態
重度障害者で働けないというのが保険会社の言い分だが、実際、障害者が普通の会社で働くことは難しい。
そこで「共同作業所で働く」という選択肢をとることが多い。
作業所の多くは利用料もかかり、作業をしても利用料を上回る賃金をメンバーに支給することができません。
列島だより/障害者支える 小規模作業所/地元で働きたい 自立したい
「東米里しいたけ村」はメンバーから利用料は徴収していません。めざすは最低賃金の確保です。現在、日給千円を支給しています。
日給1000円で1年365日一日も休まずに働いた場合
年収 365000円
【計算式】
365000×(1-0.3)×(18.25593-0.95238)= 4,421,057円
442万円
命の価値
命の値段に差があるなんて当たり前だ。医者や弁護士と、零細サラリーマンでは違う。彼は障害者だから差別されたのではない。働けないから「0円」という査定なのだ。差別が良くないならば、ニートやホームレスをひき殺しても「0円」とこちらの方をあわせるべきだろう。
じゃあ、生きている価値はカネで決まるのか? そうじゃない。現にワシはこのカネにもならない文章を、貴重な時間を割いて書いている。利益にもならないオフ会を成功させようと、限りある命を使って努力している。
確かに世の中のほとんどはカネで動いている。何でもカネに換算できる。それはなぜかと言うと、カネだけが万人に共通した価値を持っているからだ。世の中をスムーズに動かすには、共通のものさしが必要なのだ。それがカネだ。
このてらじんは、ワシにとって代えがたい価値のあるものだが、他人にとってはどうでもいいだろう。例えばはてながヘマをやって、てらじんのデータを消したとする。それでワシがはてなに対し損害賠償を請求*1する。894日のデータを1日1000円と査定し、89万4000円を払え。これを裁判所が認めるわけが無いだろう。
だが、ワシにとって宝物なのは事実。他人にはどうでもいいが、自分にとっては大事なもの。それこそが、本当に価値があるもの、命をかける価値のあるものなのだ。
息子の命の値段が0円と査定されても、そんなの関係ない。それは他人にとっての価値であって、両親にとっては代えがたいものだったのだから。
追記:もう少し詳しいソースがあった
重度障害の男性=当時(17)=が死亡した交通事故をめぐり、札幌市内の両親が6日、介護ヘルパーと所属する特定非営利活動法人(NPO法人)、相手の運転手などに逸失利益約4200万円を含む約7300万円の損害賠償を求める訴訟を札幌地裁に起こした。
訴えによると、被害者は重度の自閉症で、市内の特別支援学校に通っていた。平成17年8月、札幌市南区でバスから降りる際、ヘルパーが運賃を支払っている間に道路に飛び出し、車にひかれて死亡した。母親(47)は提訴後の会見で「(逸失利益がゼロと聞いて)生きている価値はないのかと屈辱的だった。働くことだけが人間の命ではない」と話した。
産経ニュース
人を動かすのは、愛か金だけである
追加ソースでわかったが、両親は事故相手の運転手だけではなく、ヘルパーと所属するNPOも訴えている。確かにヘルパーにも落ち度はあっただろう。運賃を支払っている間、バスの運転手にドアを開けないようにお願いすれば事故は防げただろうから。最後に降ろしてもらうようにすれば、他の降車客の迷惑にもならない。しかし現実として、普通の路線バスの一般の客もいる中で、自分たちだけ特別扱いしてもらうようなことは、心苦しいことだろう。むしろ障害者も特別扱いされることを嫌う面がある。だからヘルパーは「普通」にしたかったのではないか? それに支払いの時はドアを閉めていても、降りるときには開けなくてはならない。その時に飛び出されたら、ヘルパー一人の力では止められないだろう。障害者とはいえ、体は健康な17歳の青年なのだ。ならば腰紐や手錠でもかける? そしたら「人権侵害!」でしょ? じゃあどうしろっていうのよ。お金も無い、人手も無い、拘束も出来ない、そんな状態で面倒見てもらってるNPOを訴える? ありえないよ。
「被害者意識が強い障害者自身が、障害者を排除させる」でも言ったが、もう一度言う。ワシはこんな連中に何かしてやろうとは思わない。人が自発的に「何かしてあげたい」と思うのは、好意を持った相手にだけだ。逆に言えば、自分が何かしてあげようと思われる人間にならなくてはダメなのだ。
例えば今度のオフ会の件。Operaはワシの呼びかけに応えてくれた。それはOperaがワシらに対し「何かしてあげよう」と思ってくれたからだ。でもはてなは応えてくれなかった。それはワシに「何かしてあげよう」とはてなに思わせるものが足りなかったからに他ならない。それをはてなに「ユーザーが呼びかけているのに、応えないなんて差別だ!」とか言っても、はてなを動かすことは出来ない。そこに愛が無いからだ。
障害者だから「同情」でも人は動かせるかもしれない。でも同情と愛は違う。愛は自発的なものだが、同情には義務感を伴うからだ。義務で人を動かすには、相応の対価が必要だ。対価を払わずに人に動いてもらうには、自分が愛される存在になるしかない。
*1:免責事項があるから実際は成り立たない