新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

遊具は絶対に安全なものでなければならないのか?

まずはリンク先のニュース映像を見てもらいたい。
http://www.fnn-news.com/headlines/CONN00058723.html
広島県尾道市の県立公園の人工芝ソリ場で、二人乗りの母子が飛び出し防止用マットを飛び越え4m下の道路に転落し、母親死亡、子供は重体。
ポイントは3つ。

  1. 利用時間外の監視員のいない早朝7時から、
  2. 貸し出しのソリではなく禁止されてている自前のソリを使用し、
  3. 当時は雨上がりで滑りやすく、雨の日や雨上がりの使用は禁止であるにもかかわらず遊んでいた。

これだけ聞くと「またDQNの無駄死にか」と思うが、現場の映像をみると、かなり「危険」な施設に思える。

これだけ立派な急勾配で、飛び出し防止がこれだけで、しかもその直後が崖になっているとは。設計に甘さがあったことは否定できないだろう。母娘の行動は規定外であったのは確かだが、想定外であってはならないはずだ。
ただ、この文章は施設側の責任を追及する意図のものではない。逆に、こういう遊具施設で時々死者や重傷者がでたほうがいいのではないのだろうか、と思っているのだ。以前「宅地造成地での兄弟生き埋め事故と、「箱ブランコ裁判」を考える」というコラムで書いたのだが、子供の遊びには、危険を察知・回避する能力を養う側面が必要だと思うのだ。現代社会で、身近に危険を感じることはそれほど多くない。例え危険な場所へ行っても、そこには多くの安全装置があり、丁寧な警告情報がある。そのため、自分自身で危険を察知・回避する能力が退化しているように思えるのだ。例えば台風が今まさに接近しようかという時に、酒に酔って「もう台風は過ぎたのか?」と電話してくる者がいたりするのだ。

正常性バイアス

先日地震が発生したときに、深夜にも関わらずNHKが瞬間最高29.8%の高視聴率を記録したそうだ。これ自体は悪いことではない。だが、これが津波が来る可能性の高い地域でも同じなのだ。揺れたらすぐに高台に逃げる。これが津波対策の鉄則であり、TVで「津波が来ます」からでは遅いのだ。にも関わらず、やはりまずTVという人の方が多い。こういった「外界の強烈すぎる刺激に対して、理知的動物がそれを心理で抑制して、慌てないようにしてしまうこと。」を正常性バイアスと呼ぶそうだ。このソリ場の強烈な勾配を見て恐怖を感じない人間はいないだろう。しかも雨あがり。摩擦係数は下がり、いつもより速度が出ることは容易に予想できたはずなのだ。ところが「大丈夫」と思ってしまう。なぜか? それはこれまでに危険を経験していないからだと思うのだ。

危険を経験することは貴重

このソリ場を利用した方のレポートにこんな記述がある


特に巨大な芝滑りがあり、めちゃくちゃ恐くておもしろい。人工芝の上を100mほどの高さ(実際は22m)からプラスチックのそりで滑り降りる。最上段から下を見ると、それだけで日の丸飛行隊の気分。(使うのはスキーではなくそりだけど)実際に滑ってみると、ものすごいスピード感。摩擦熱がそりを通り抜けてお尻に伝わってくる。ちょっとバランスをくずすとあっという間に横転し、そのまま坂の底まで転がり落ちてしまう。擦りむいたり焼けどしたりしながらも、おもしろくて子供と一緒に何回もすべって遊んだ。正直言って、こんな危険な遊びを自由にできる場所は貴重かもしれない。
実際は22mの高さを100mと感じてしまうほど恐怖。そしてけがをしながらも「面白くて危険な遊びは貴重」と述べている。子供の遊びに於いて最も重要なことが「危険である」ということなのだ。はっきり言うが、危険でない遊びなどつまらない。どんな遊び、どんなスポーツでも必ず危険が伴い、それを制御できるように知恵を出し工夫するから楽しいのである。危険な遊びをせずに知識だけを詰め込む教育が、どれほど子供をつまらなくさせているか。人間が生きていく上で必要なのは知識よりも知恵だ。この母娘も、最初は坂の低いところから様子を見て滑ればよかったのだ。
知恵とは普段の生活や遊びの中から身につけていくものだ。子供を将来危険な目に遭わせたくないならば、バンバン遊ばせて、バンバンけがをさせるべきだろう。死にさえしなければ、それは貴重な体験になり、知恵となるのだ。

今の日本は近代で最も成功した国家社会主義体制

みなさんのコメントを読んで、ふと思い出したのが、派閥へ復帰した自民党加藤紘一氏から聞いたこのことば。


今の日本ってのは私は、近代世界史の中で最も成功した国家社会主義体制だと思います。なんだって、不景気だっていうと「政府何とかしろ」。インターネットいじれないおじいちゃんがいたら「政府が何とかしろ」(注:このオフ会の当時、政府は平成12年度の補正予算の内「情報通信技術(IT)講習推進特例交付金」を設け、地方公共団体が自主的に行う「IT講習会」の開設を支援するべく、都道府県に交付金を交付した。)。全部政府のところに来たんだけど、そんだけの能力ないですよ。そんだけの税金も預かってないですよ。ないのに、預かってるようなふりして、できるようなふりして言ってるからですね、みんながそんなことできるわけ無いじゃないかと。「エイヤー、即やってあげます」って言うから、冗談じゃないっていうふうに今、言ってんじゃないでしょうかね。
とにかくこの国のお役所は優秀でよく働く。役人批判をすれば、歪んだカタルシスを得られるような頭の悪い人もいるようだが、本当に何でもやってくれる。極論すれば、この国ではゆりかごから墓場まで、何一つ自分の意志決定無しで暮らせていける。人生の重大な岐路で、自分の意志を何%くらい反映したか。志望校を決めるとき、本当に自分で決めたか? 進路指導の先生、あるいは塾の先生が決めたのではないか? 就職するとき、本当に自分で決めたか? 結婚は? 子供は? 昔みたいに、お見合いばばあがいたり、産めよ増やせよじゃなくなって、自分で決めなきゃいけないから、晩婚・非婚化や少子化が進んでるんじゃないのか? 自分で決めたような気になっているだけで、全部他人任せではなかったか?
なんでも誰かが何とかしてくれる。自分でやらなくても。娯楽だってテレビが全部やってくれる。投票に行かなくても勝手に決まる。政治批判も誰かがやってくれる。苦情すら誰かが代わりに言ってくれる。飲んでくだを巻いたり、誰も読んじゃいないブログや、2ちゃんねるで書き散らすだけ。だからこそ、自分で何もやっていないからこそ、何か起きたときは役所や他人のせいにするのだ。例えばこの事故の場合だって、もし自分の意志で判断して出航を決断したのならば、自らのへまを尻ぬぐいに命がけで来てくれた人に対して、こんな態度を取れるわけがない。自分の失敗は誰かのせいなのだ。
911テロの3ヶ月後にニューヨークの街を歩いたとき、歩行者は誰も無駄な信号を待ったりしていなかった。クルマが来ていないときは自らの判断で渡っていた。まだ交差点おきに警らの警官が立っていたが、それをとがめたりしない。それが当たり前という風だった。このソリ事故でもそうだが、母娘を責める理由として、「規則を守らなかったから」をあげる人が多いことを改めて認識させられる。知恵を働かせずに判断を誤り、自分と子供を危険に陥れたことよりも、規則違反の方が重大なのだ。例えば100キロオーバーの速度違反だけど無事故なのと、法定速度を遵守して事故を起こすのでは、どちらの方が悪いのか? どう考えても後者だろう。速度制限というのは事故を起こさないための単なる目安であって、規則を守ること自体にはなんの意味もない。大事なのは事故を起こさない事。大切なのは作品であって、著作権ではないこと。こんな単純なことがわかっていない。それが今の一般的な日本人なのだ。
こういった文章で「社会が悪い、教育が悪い」って書いてる時点で、実は既におかしいのだが。