新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

「もし事実だとしたら」という文章には気を付けろ


自力で調査する能力を持っている人は、情報を確認するために動くのは無益なことではありませんけど、それ以外の人が、何にも動きもしないで、脳内で正しいと思い込んで、それを基にあれこれ論評するのは軽率であり、信用を落とすだけであると思います。
で、よく見かけるのが「これが事実だとしたらとんでもないことだ」というような主張。これは責任回避のための保険ですね。これで「自分は本当だと信じていたわけではない」と言い逃れできると思っているわけですね。でも、「事実が事実でないのかわからないのなら、事実確認することが最優先事項」ですよね。
「もしそれが本当だとしたら」ではじまるテキストは書かない(愛・蔵太の気ままな日記)経由
私も同じく「本当だとしたら」「事実だとしたら」で検索して、該当文章がないことを確認した。そして次の文章を見つけた。

「もし本当だとしたら」を言う時には、実は半ば以上、その情報を受け入れてしまっているのではないか、という点だ。一応の留保は置きながらも、意識下では事実である可能性が高いと感じているからこそ、驚いたり怒ったりという感情が生じ、それを誰かに伝え、共感して欲しいのではないだろうか。もしそうであるとすれば、前提としての「もし本当だとしたら」は、むしろ免罪符となってそうした感情の増幅と伝播を許容し、流言蜚語を生み出しやすい状況を作る一助になりはしないか。
センセーショナルな文章やタイトルほど、インパクトは強い。真偽を確かめる前に、誰かに伝えたい感情が優先するのもわかる。
昔からこういうリテラシーの低い人はたくさんいた。噂好きのおばさんとかがその代表例だ。でもその拡散範囲はせいぜい町内くらいだった。ところがその噂好きのおばさんがインターネットという道具を手に入れてしまったから始末が悪い。情報分析・理解能力はそのままなのに、収集と発信能力は著しく向上してしまったのだから。
これらに対応するには、まずその人の評判を聞くことだろう。「あの人嘘つきだから」これは昔から変わらない。そしてネットならではの対応「もし事実だとしたら」の類で検索をかけてみる。少なくない数がヒットするようなら、つまりはそういうことと考えていいだろう。
きっこの日記」の場合、確かに文章から胡散臭さが滲み出している。しかし本人の肉声や表情をうかがい知ることは出来ない。だから騙されてしまう人もいるのだろう。しかし細木数子のように、全身から胡散臭さを発している人物の言動を真に受けたり、さらに尾ひれを付けて拡散してしまう人が数多くいることが信じられない。(参考:デマはデマであると見抜ける人でないと(地震情報を使うのは)難しい
結局の所、人は真実よりも噂の方が大好きなのだ。そちらの方が楽しいし、メディアであればカネになる。何十年何百年何千年経ってもこれはかわらないだろう。