宮崎県の県民性について
これまで宮崎人について、私自身の体験と感想を述べてきた。今日は民俗学の視点から見たものを紹介しよう。
宮崎の民俗−宮崎県民俗学会のサイト−
現在リニューアル中につき、コンテンツが閲覧できない状態です。そのため2003年4月27日にローカルに保存したテキストから転載させて頂きました。
『県民性─文化人類学的考察─』 文化人類学者祖父江孝男
同じ九州でも、宮崎となると、他の諸県とはどうもいささか違うようだ。
ここでは積極性とか熱情性といった面が姿を消してしまって、
「消極性」という特質が、だれによってもかならず指摘されている。
一方ではノンビリしているという特色もあるから、この点は長崎あたりに似てくるのだが、
九州にしては珍しく「弱気」とか「怠惰」などともいわれている。
それというのも、長いこと隔離されて孤立し、文化的にも低いところにおかれていたからだと解釈されるが、
文化的に遅れていても、東北のようにそれを気にして、劣等意識をもつことはないようである。
『九州の精神的風土』 高松光彦「日向的台風メンタリティー」
地勢的には単調であっても季節的には必ずしも単調ではない。
台風常襲地帯で、六、七月より九月頃までは、大小の亜熱帯性低気圧が襲来し、強風、降雨をもたらす。
迅風は病葉を飛ばすが、人びとの営々たる努力と成果をも一瞬にして水泡に帰する。
人びとは、これを天の意図する宿命として、しばしばこの自然の猛威への対応を断念放棄する。
対応を断念はするが、豪雨は山間の肥沃な土壌を洗い流し、
流れきった沃土は沖積平野を再び沃土で覆い、豊沃なる農業地を再生し、
種さえ蒔けば、高温多雨な風土はふたたび多種多量の農産物を恵む。
自然の試練は、試練とならず、諦めと忍従、怠惰と投げやりに流れる。
これにつづく自然の恵む復原は精励を必ずしも必要としないことを知るのである。
このしたたかな宿命観を「日向的台風メンタリティー」という。「日向ぼけ」と評される所以である。
同じ南九州での鹿児島と宮崎の違い
私は鹿児島で3年間生活し、母親も鹿児島出身である。
鹿児島人
自分たちの悪いところを認めようとしない。
何かというと過去の栄光を持ち出す。(幕末・維新の偉人達など)