新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

陶芸と教育とは通ずるものがある

今一番おもしろい新聞コラムをあげるとならば、迷わず東海新報の『世迷言』を選ぶ。正直、文章はあまりうまいとは言えないのだが、目の付け所、切り口が素晴らしく、新聞とは思えないほど言いたいことを言い、「いつも極論をいうので嫌われている」らしい。入試問題に採用されることが多いのだけが自慢のを代表とする、『だが、心配のしすぎではないか』『なあに、かえって免疫力がつく』『風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ』などの迷言を連発するような大新聞社のコラムにはない、コラムらしいコラムを読むことができる。
まるまる引用するのも芸がないので、2006年06月16日付のコラムをさらに短くアレンジしてみた。


陶芸には奥深いものがある。どんな傑作をつくろうと、最後は火まかせであり、意図するものができる確率は極めて低い。だが、意図をはるかに超えたものができることもまれにある。

土はうそをつかない。

ろくろを挽くとわかるが、基本の土練りをおろそかにすると、伸びるものも伸びず、ぐにゃりと曲がってしまう。

土はごまかしがきかない

仕上げた作品は日陰で自然に乾燥させねばならない。しかし時間がないからと日向で手抜きをすると、素焼きか本焼きで必ずボロが出る。

焦りは絶対に禁物

窯焚きは、焚き初めと最後の追い焚きが大事。もっとも疲れるこの作業を早く済まそうとすると、一窯全部をダメにすることになる。それまでの労力が無と化し、燃料の浪費に終わる。

人間も同じ

基本をおろそかにせず、ごまかさず、じっくりと、焦せらず育てる。これぞ教育の心得である。

他にも楽しいコラムが満載だ。芸もなく丸々転載する。(アンカーがないのでリンクが張れないから。もったいない→URLに直書きでなんとかなった。)

2006年06月01日付

 思想・信条の自由は何人たりともこれをおかすことはできない。何を思おうと何を信じようとそれは本人の勝手だが、その思いをかなえるためには何をしてもかまわない、とは本にも書いていない。
 定年まで勤務していた都立高校の卒業式に来賓として招かれた同校の元教諭が、開式前保護者らに国歌斉唱時は起立しないように呼びかけたとして、威力業務妨害罪に問われ、一審で罰金二十万円の判決を言い渡されたのは妥当だろう。保護者らにコピーを配布して、国歌斉唱の時は着席してほしいと大声で呼びかけ、制止されると怒鳴り散らしたその結果、式は二分ほど遅れた。
 国歌に反対することもこれは自由だから、本人が歌わなかったり、着席したりするのも自由だが、厳粛な卒業式を妨害する権利まではいかなる法も認めてはいない。元教師ともあろう人物がそんな常識もわきまえず、自分の主義主張をまきちらして迷惑をかけるというのは、成人式で暴れ回る若者とどこが違うのか
 この卒業式では卒業生の約九割が着席したというから、思想教育が行われていたのは明らかで、この元教諭も在職中そちらの教育にはさぞ熱心だったと思われる。多分、国歌、国旗を押しつけるなというのがこの人物の主張なのであろうが、ならば、反対を生徒や保護者に押しつけても許されるというのであろうか。式は公教育の場での儀式であり、誰であろうと学校の方針に従わなければそれは成り立たない。
 自分の主張に共鳴してほしいのは誰もが同じだが、しかし教育の現場でシンパを増やそうという行為は生徒にとっても保護者にとっても迷惑である。もし極端な国粋主義教師がいて、生徒を洗脳してもそれが許されるかどうか、立場を変えてみればあきらかだろう。

2006年01月12日付

 厳粛な成人式を当の新成人がぶちこわす。一時全国的に問題になった、荒れる成人式が収まりかけたと思っていたら、今年行われた盛岡市のそれはひどいものだったらしい。
 テレビで見た同僚の話だと、市長の式辞の間にクラッカーを鳴らす、立って騒ぐ、携帯をかける、私語をする…などなど傍若無人。たまりかねたサスケ県議が制止に入ったら、十数人に取り囲まれあわや乱闘という場面になったそうだ。
 騒然となったその状況下でも、市長はあいさつを続けていたらしい。職務に忠実なことは結構だが、ここでは中断し、大人子どもたちに「これはあんだ達のための式典なんだ。バカなごどぁやめろ」となぜ一喝しなかったのか?
 これは当事者として、当然のことであり、それでもなお言うことを聞かないのなら、式場から追い払うべきなのである。さすがあまりのひどさに、昨日の岩手日報論説は、主催者側のなあなあ的対応を批判している。それはそうであろう。昔なら「そんなガキぁどつまみ出せ!」となったろう。
 これはある高校長から聞いた話だが、授業時間に立って歩く生徒を注意したら、なぜ注意されるのか本人が分からなかった。つまり家の中で問題行動を起こしても叱られたことがない、という体験が判断力を失わせているのである。つまり親のしつけが、まったくなっていないということであり、これはいま学校で最大の問題となっている。
 学力至上主義の弊害うんぬんという以前に、家庭における最小限の教育である「徳育」の不在が「バカなガキぁど」を育ててしまった。その結果が成人式に持ち込まれたということだろう。叱られることのない社会がどんどん「犯罪の温床」化するのも、自明ということである。