新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

心から言葉を紡ぐ

10/12の「自分の言葉の価値を高める」というコラムで、『くらし恵めし』のことに少し触れたら、偶然11/2の「書けば書くほどウソ」で同じ話題に触れている。まさか、私の文章のことを言っているわけではないだろうが、勝手にそう妄想してみる。それがファン心理ってやつだ(笑)


 私はこれらの人たちの顔も名前も知らないけれども、心から無事であって良かったなあと思うし、これから一刻も早く普通の生活に戻られることを願っている。
 と、いくら私が願っても、文章にしたり口に出したりすると、ウソっぽいとか偽善者とか言われてしまう。けれども、そもそも人間の本心を外部に発した段階でそれは既に本心とは異なっており、さらにそれが他の人に伝わってその人の心に入るときにまた微妙なズレを生じる。だから私の本心を彼らの本心に直接伝えることは決してできないのだ。
確かにその通り。自分の本心を他人に伝えることは決して出来ない。だからといって、

 ただし、発信するときに誤解を与えにくい表現があるのは事実だ。お悔やみやお見舞いの言い回しが決まっているのは、無用な誤解を避けるため、長年積み重ねてきた暮しの知恵である。私はこのコラムではあまり使わないものの、重大な事故や災害が発生したときは敢えてこの言い回しを使ったり、特別に「です・ます」を使ったりする。それは被害者に対しあらぬ誤解を与えたくないのと、大きな失敗を犯さぬよう慎重になっているのだ。
誤解されないように、失敗しないように、慎重に、テンプレートで済ませるのか? それが知恵か? では「心からお見舞い申し上げます。」とコンビニの「いらっしゃいませ、こんにちは。」にどれほどの違いがあるのか?
なるほど、処世術は必要だ。だが、言葉を発する者にそんなものは不要だ。誤解されるかもしれない。真意が伝わらないかもしれない。そんな不安を抱きつつ、誠心誠意、言葉を紡ぐ。それが物書きにとっての「心から」だ。それを放棄してしまったテンプレートに「心」がこもることは決してない。