新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

「会話はキャッチボール」の本当の意味


会話はキャッチボールなのである。つまりそこに目標などない。ダラダラと続けることが大事なわけであって、間違っても取りにくい球を投げてはいけないのだ。相手が返せるような球を投げあって、ただひたすら時間を潰す。これこそが会話と言う奴なのだ。
私は会話においてキャッチボールなんてほとんどしていなかったように思う。どちらかと言えばドッヂボールに近かったように思う。相手に如何に剛速球を投げるかを考えてきた。だから、ヘロヘロな球、すなわち、くだらない会話をする奴をアホだと思ってきた。どうしてこんなものを投げることができるのだろうか。どんだけ、頭が足らんのだと。
それは私がミクシィに抱いた感想と同じだった。友人たちの書く、何の面白みもない、つまらない、非建設的記事。何でこんなにつまらないものがブームになるのか、私は不思議だった。
しかし実は、会話の目標はリレーの継続であったのだ。ミクシィにおいて、足跡の付け合い、レスポンスの付け合いが目標であるように。中身なんて別にスッカラカンでも良いのだ。如何にレスポンスをしやすい会話をするか、それに気を使うものこそ、コミュニケーション上手なのだ。
会話は「量」より「質」だと思ってきた。でもそれは違う。会話において重要なのは「質」よりも「量」なのである。
うーん、id:maroyakasaさんは「本当のキャッチボール」をしたことがないのなぁ。

キャッチボールはあくまで、何かのスポーツをするための練習や準備体操であって、それ自身はスポーツではない。

「練習や準備体操」なのは確かだが「スポーツではない」はどうだろう? そして、

なぜ、キャッチボールはスポーツに含まれないのだろうか。それは、この運動に、目標と言うものがないからだ。

は、間違っている。「練習や準備体操」は本番で素晴らしいプレイをするためという目標がある。
ダラダラと続ける練習の効果は薄いし。手にバシーっと響く位でないとやってても楽しくない。もちろん誰もが最初からビシッとした球を投げれるわけではないし、捕れるわけでもない。でも、練習を続ければうまくなるし、うまくなれば楽しくなるし、もっとうまくなりたいと思うし、だからこそ練習を続けるのだ。
mixiの住人はキャッチボールをダラダラ続けるだけで、うまくなろうとはしない。その先にあるはずの試合なんて全くやる気がない。だってアタシ達、練習しても試合には出れないもーん。だったらテキトーに楽しんだ方がいーじゃん?
真剣に練習すれば取り損なってケガだってする。ケンカだってするだろう。そしてダメなヤツはレギュラーから外され補欠に回される。そのまま退部ってこともある。厳しい世界だ。それでもスポーツをしたいと思うのは何故か? それはうまくなりたいからだ。うまくなって、もう一段上の楽しさを味わいたいからだ。誰も傷つかずに、みんな仲良くチーパッパで上に登ることはできない。相手や自分に手加減してうまくなることなんて絶対無いのだ。
キャッチボール自体は目標にはならない。だからといってキャッチボールがスポーツではないとは言えない。なぜならキャッチボールはウォーミングアップであるが、そのまたウォームアップをするではないか。投げる前には肩や肘、手首をほぐす。いきなり全力投球はせず、最初は近くから。段々と遠く離れ、強く速く投げる。真っ直ぐだけではなく、時にはゴロや山なりのボールも投げる。逸れたら「ゴメン」。捕れなかったら「ヘタクソ」。立派で楽しい「スポーツ」だ。
id:maroyakasaがさん勘違いしているように、「質より量」な世界もあるけれど、それはミクシィのような目標のない閉じた狭い世界だけの楽しさであって、やっぱり本当は「量より質」の方が圧倒的におもしろいのだ。

キャッチボールの極意

  • 相手の胸をめがけて投げること。
  • 両手で取ること。
  • ショートバウンドやワンバウンドはボールがグローブに入るまでしっかりと見ること。
  • いかに ボールに力を伝達するかを考えて投げる(フォーム)
  • 取ってすぐに投げられる体制を取る(両手で取らないとできない)
  • グローブの芯で取る。
  • 反れた球は目線が動かないように(上下しないように)移動して正面で取る。

これ読むと、やっぱり「会話はキャッチボール」だって思うね。