新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

いじめとはシーツによった「しわ」のようなもの

福岡の中2男子の自殺事件が教師がいじめに加担していたこともあり話題だ。いじめの原因はいろいろあるだろうが、いじめられて自殺するのは100%自殺した本人に責任がある。教師が殺した、いじめた同級生が殺したなんて言うのは、死者への冒涜である。いじめられた上、自殺すら自分の意志ではないと否定されたら、本当に生きていた意味がないではないか。死んでまでいじめることはないだろう。

子供は自分の事は耐えられる。しかし親の事は耐えられない。


虐めで自殺ってやるせないなあ。家族って気付かないもんなんだよなあ。僕の姉も小学生の頃、虐めにあっていたらしいんだけど、僕は全く知りませんでしたから。一歳違いで同じ学校に通っているのに、ずっと知りませんでした。家族の誰も、虐めについて知りませんでした。
被害者って、家族に心配をかけないように、虐めの事実を隠すんだよね。
確かに彼は、付き合っていた彼女に「男やけん、大丈夫、みんな僕んこと、からかっちょるだけ」と笑っていたそうだ。なぜそうするのか?
これらの文章を読んで、田口ランディのコラムを思い出さずにはいられなかった。

いじめの事実を知ったら、きっと母親はショックを受けると思った。その母親のショックに、自分が堪えられなかった。母が「苛められる子はみっともない」と思っているのを感じていた。大人が口先では「悪いことをする人が悪いと」言っても、心では「される方もみっともない」と思っているのを知っていた。
子供は自分自身に起る現実にはかなり堪えられる。堪え難いのは母の身に起こることだ。母が傷つくことだ。母親から離脱するまで、子供の行動は母親を守ることを優先せする。
守るべき母親が何を大切に思い、何に屈辱を感じるかを察知して、それに合わせようとする。それが子供の行動原理だ。
私にも同じような記憶がある。いじめではなく「おまえのカーチャンでーべーそー」程度のからかいだったのだが、小学3年生の私は相手をケガさせてしまうくらいブチキレた。ジダン頭突き事件で、当初母親のことをからかわれたと報道されたとき、「お前は俺か」とツッこんだのは言うまでもない。

いじめってなんだろう?

さて、いじめに関しての秀逸な文章は、同じく田口ランディの「いじめってなんだろう?」だ。正確にはランディの友人の言であるが、とにかく読んでみてほしい。
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Q「あのさ、いじめって何だと思う?」

A「いじめ?」

Q「そう、いじめ」

A「そうやなあ、いじめってのは皴(しわ)だな」

Q「皴?」

A「そう。関係の皴」

Q「どういうこと?」

A「つまりな、人間関係ってのは、みんなでデカいシ−ツの端っこを持って歩いているようなもんなんや。だけどときどき、そのシ−ツに皴が寄ってしまうんよ。その皴の寄ったところを持っている奴が、いじめられるねん」

Q「シ−ツはいつもピンと張ってなきゃいけないわけね?」

A「そうそう。だからみんな突っ張って力を入れてシ−ツを持つんよ。だけど、あんまり力を入れ過ぎると、自分がシ−ツを引っ張りすぎてみんなの手が離れてしまう。ダレていると皴が寄ってたるんでしまう。そやけど、シ−ツを持って歩くというのはすごく難しいさかい、どこかに皴は寄るもんなんよ。でな、当然のことながら、力の弱い奴のところに皴は寄りがちやねん」


Q「でもさ、なんでみんなシ−ツなんか持って歩いてるの?」

A「知らん。誰かが教えたんやろ、これ持って歩きなさいって」

Q「シ−ツなんか持ってたら歩きにくいじゃん」

A「そうや、おっしゃる通り。けど、持ってると楽やねん」

Q「なんで?」

A「持ってる方がかたまりやすいやろ?だからみんなシ−ツに寄ってくるんよ。もう入る余地がないほど人が群がってるシ−ツに、無理やりねじ入って、片手でもいいからシ−ツを掴んでいたいって思うんよ」

Q「なんか、うっとおしい」

A「ほんまにうっとおしい。うっとおしいから、シ−ツを切り裂きたくなる奴も出てくる」

Q「それが犯罪者になると?」

A「そうは断言できんけどな」

ランディはこのコラムの最後を「子供にはいじめにあったら『シーツを手放して一目散に逃げろ』って教えたい」と締めくくっている。それもありだな、と思うが、私は「そんなにピンと張ってなくてもいいんじゃね?」って言う人物が集団に一人いればいいことだと思う。だってみんなそう思ってるのだ。なぜピンと張ってなきゃダメなのか誰も知らない。なぜかわからないのに、自縄自縛の状態になっているのだ。
だから私は、そのシーツの真ん中にダイブする。しわどころの話じゃなくて、地面についてしまうかもしれない。そしたら真っ白だったシーツが汚れてしまうかもしれない。握っていた手を離してしまう者も出るかもしれない。でも、だからといって何かひどい事が起きるわけじゃない。汚れたら洗えばいい。手を離してしまったら、また握ればいい。それだけのことではないか。
それどころが、私を乗せたままシーツを上下に激しく振れば、トランポリンのようになって面白いかもしれない。シーツでグルグル巻きにするのも楽しいかもしれない。「ジュディオング!」とか言って『魅せられて』を踊るのもいい。
つまりシーツは常にピンと張った状態である必要はないってことだ。
これがわかってない、わかろうとしないから、いじめたり、いじめられたりするのだ。

できればムカつかずに生きたい (新潮文庫)

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