モノへの執着(私の場合)
「鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしい」の続き。
収集癖のある人の話を聞くと、コレクションとは単なるモノではなく「自分の一部」という感覚のようだ。
自分には収集癖はないのだけど、気持ちはよく分かる。私はゲーセン小僧だったから、「あのゲームがやりたい、あのゲームはどこだって、古ゲーム屋を渡り歩いた記憶や、ようやく見つけた時の喜びや、ゲームするために昼飯我慢して空腹でも楽しくて仕方なかった思い出」はある。ただ、アーケード派だったから家庭用に興味があまりなかった。もし家庭用だったら、ゲームカセットなどを集めるコレクターになっていたかもしれない。でも家庭がそんなに裕福ではなかったら、ゲーム機やソフトを買えるほど小遣いがなかった。だから50円玉を握りしめてゲーセンに行き、1プレイ1プレイを気合い入れてプレイした。「1コインクリア」「カウンターストップ」は俺たちにとって勲章だった。
なんでマンガやオモチャ集めるのかって言ったら、『それを好きだった自分』を忘れないためなんだよ。
自分がその時、それが大好きで、そのために一生懸命になれて、最高に幸せだった瞬間を覚えておきたいからなんだよ。(中略)あの巻が足りない、この巻の初版はどこだって古本屋を渡り歩いた記憶や、ようやく見つけた時の喜びや、本買うために昼飯我慢して空腹でも楽しくて仕方なかった思い出が詰まってるから。
そんな宝物を勝手に捨てられたってことは、『それを好きだった自分』=『今までの自分自身』を否定されちゃったってことだよ。それまでの自分の積み重ねで今の自分がいるのに、全部壊されちゃったんだよ。よりによって、人生のパートナーである妻に。そりゃ無気力にもなるわ。
ちょっと話がずれてしまったけど、私にとっての宝物は、形にはできない思い出そのものなんだ。あえて言うなら、一緒にプレイした仲間たちが、私の自慢のコレクションだと思ってる。
モノへの執着がなさ過ぎる
とは言っても、大切にしているモノの一つくらいはあるだろう?って思うかもしれない。これがホントにないのだ。私はアニメも好きで、特に昔の宮崎駿作品が大好きだった。「耳をすませばに声優として出演できる」というイベントに参加したときに、おみやげを沢山いただいたのだけど、全部人にあげてしまった。それだけじゃない。ジブリにおじゃましたときに、宮崎さんに台本にサインをしていただいたのだが、いまや行方不明だ。というか、コタツの上にほったらかしといたら、カレーヌードルぶちまけちゃったことすらある。(宮崎ファンの人ゴメン)確かにうれしかったんだけど、自分にとって大事なのは、宮崎さんに会えて話ができたことであって、台本はやっぱりモノでしかなかったのだと思う。
どうしてこの画像があるのかというと、「どうせ、すぐ無くすに決まっとる」と友人がコピーしていたからだ。結局のところ、やはり私の宝物は「ゆかいな仲間たち」ってことらしい。