新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

席を譲らなかった若者


電車の座席はほぼ埋まり、車内には立っている人がちらほらいる程度。男性1人、女性2人のハイキング帰りらしい高齢者が立っていた。彼らの目の前の座席には若者2人と50代ぐらいの女性1人が座っている。若者は2人とも茶髪、1人はサングラスをしていた。
この高齢者組の男性が「最近の若い者は年寄りを立たせても平気なんだから」「ちょっと前は罪悪感からか寝たふりをしたもんだが、最近じゃ寝たフリもしないからふてぶてしい」などと、かなり大きな声で話している。
サングラスの若者が口を開いた。「あんたたちさぁ、山は歩けるのに電車では立てないの? それっておかしくない? 遊んできたんだろ? こっちはこれから仕事に行くところなんだよ。だいたいさぁ、俺みたいなヤツが土曜日も働いてあんたたちの年金を作ってやってるんだって分かってる? 俺があんたみたいなジジイになったら年金なんてもらえなくて、優雅に山登りなんてやっていられないんだよ。とにかく座りたかったらシルバーシートに行けよ」
3人の高齢者は凍りついたように黙りこくり、次の駅で降りていった。
4/26に書いていたのをアップし忘れていた。
コメント欄を読んで不思議に思ったのは、「いいとか悪い」とか、「正しいとか間違っている」、「世代間の軋轢」とかで話していることだ。そうではない。このケースは「勝ったか負けたか」の視点で見るべきなのだ。これはケンカだ。老人が売って若者が買ったケンカなのである。そこに正義感やらモラルやら思いやりなどを持ち込むのは、全くわかっていない。ケンカにルールはないのだから。

忘れられない一日

楽しいハイキングの帰り。女連れだしさぞ気持ちよかった事だろう。ところが帰りの電車は席が埋まって座れない。目の前には茶髪でサングラスのチャラチャラした若造。よし、ここでびしっと言ってやれば、ご婦人方にいいところが見せられる。だが、その目論見はその若造に無惨にも打ち砕かれた。彼は負けた。楽しい思い出になるはずだった一日は、おそらくは死ぬまで忘れることの出来ぬ、恥辱にまみれた一日となったのである。

慣れないことはするものではない

老人がさらなる反撃に出なかったのは賢明だった。彼のケンカ言語能力では、さらに言い負かされていたに違いない。まぁ、ぐうの音も出なかったというのが本当のところだろうが。
居心地が悪かったのは、ご婦人方の方もだろう。電車を降りた後、彼女らは老人に何を話したのだろうか。
そして彼は後悔する。「どうしてあんな嫌味を言ってしまったのだろう」普段の彼は茶髪でサングラスの若者に、そんなこと言うはずがない。たとえ若者の前に妊婦が立っていたとしても、見て見ぬ振りをするはずだ。だがその日に限って何が彼をそうさせたのか。それがご婦人方であることは言うまでもないだろう。さらにその日のハイキングでは、彼はイカす山男を決め込んだに違いない。すれ違うハイカーにはさわやかな挨拶を。普段はマンションの隣人とエレベータで一緒になっても挨拶しないくせに。捨ててあったゴミを拾って「ゴミは持ち帰るのがマナーです」。普段は家のゴミの分別すらしないくせに。その一日だけはさわやかな男になりきりたかったのだ。
しかし、最後で馬脚を現してしまった。「君、席を譲りたまえ」とか言えばよかったものを、つい普段の嫌味で矮小な自分が出てしまったのである。慣れないことはするものではない。

若者にとっては想定内の出来事

逆に茶髪でサングラスの若者にとって、老人の嫌味など慣れたものだろう。いつでも迎撃体制が整っているはずだ。年金うんぬんの話も、いつか言ってやろうと用意されていたに違いない。いや、既に誰かを撃墜した実績があったのかもしれない。

老人が逆転するには

老人が一日を気持ちよく終わるためには、どうすればよかったのだろうか。「若者に嫌味を言うべきではなかった」というのは、全くおもしろくないので却下する。嫌味を言ってなお、若造に反撃するための策はないものか。