新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

日の丸・君が代をおもちゃにするな


 東京都教育委員会が都立の高校や盲・ろう・養護学校の教職員に対し、戒告などの大量処分をすることを決めた。今月の卒業式で君が代斉唱のときに起立しないなどの職務命令違反があったからだという。
 約180人ともいわれる処分は異例だが、処分に至る過程も常軌を逸していた。
 国旗は舞台の壇上正面に掲げる。教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。そうした細かな通達を守っているかどうか。都教委は監視役の職員を学校に派遣した。処分の対象者が増えたのは、それだけ教職員の行動に目を光らせたせいでもあるだろう。
 起立したかどうかは見ればすぐに分かる。教職員の座席表もあらかじめつくらせていた。処分する側にとって、これほどやりやすいことはないだろう。
 式を妨害したのならともかく、起立しないからといって処分する。そうまでして国旗を掲げ国歌を歌わせようとするのは、いきすぎを通り越して、なんとも悲しい。
 東京も含めて全国ほとんどの公立小中高校ではすでに日の丸が掲げられ、君が代が歌われている。
 それでは不十分だ、国旗を壇上に掲げ、起立させ国歌をもれなく歌わせなければならない。それが都教委の考えだろう。
 その現場で何が起こっているか。ある学校でこんな話を聞いた。
 今年の卒業式で生徒たちは君が代をこれまでにはなく大きな声で歌った。卒業式に向けて、練習を繰り返した。そのうえで決定的だったのは、校長が「君たちがしっかり歌わないと、先生方が処分を受けかねない」と生徒たちに言ったことだった。
 自分が歌わないと先生が処分されるかもしれない。3年間勉強や体育を教えてくれた先生が国歌斉唱で立ち上がらなかったといって、処分される。そうした卒業式を味わった生徒たちは大人たちをどう思うだろうか。国旗や国歌に愛着を持つだろうか。
 教師を処分するのは、それだけではすまない。いや応なく子どもたちを巻き込むことになるのだ。
 日の丸や君が代について受け止め方は人によってさまざまだ。
 国旗掲揚、国歌斉唱を子どものときからきちんと教え込むべきだという人もいる。一方で、日の丸や君が代に抵抗感を持つ人もいる。日の丸や君が代は好きだが、むりやり起立させられたり、歌わされたりするのはいただけないという人もいる。
 そうした色々な考えの人たちがいるにもかかわらず、学校の中では一人残らず国旗に向かって起立させ、国歌を歌わせようというのはむりがあるのではないか。
 都教委の目はすでに4月の入学式に向いている。国旗掲揚、国歌斉唱をもっと徹底させようというのだ。
 処分を掲げてこのまま突っ走るのは、新入生を迎える行事にはふさわしくない。

 たけなわのセンバツ高校野球大会の開会式で、女子高校生が国歌を独唱した。伸びやかな歌声に合わせて国旗が掲揚され、スタンドの観客も起立し、選手と共に掲揚台を見つめた。
 夏の甲子園大会でも、プロの歌手が国歌を独唱している。
 国旗や国歌が、暮らしに溶け込んでいることを実感させる光景だ。
 それなのに、学校では、混乱する。
 国歌斉唱で、椅子(いす)から立たない教師がいる。国旗を三脚に付け、会場の隅に置いておく学校もある。
 東京都教育委員会は三十日、今年の卒業式で起立を拒否するなどした教師約二百人を、職務命令違反として、戒告などの処分にすることを決めた。
 元教師が、国旗、国歌に反対して開式を妨害した高校もあり、元教師については、威力業務妨害で警視庁に被害届が出されもした。
 広島県立高校の校長が国旗、国歌をめぐる教員との対立から自殺したのをきっかけに、一九九九年、国旗国歌法が制定された。今、卒業式などでの国歌斉唱、国旗掲揚の実施率は100%近い。
 だが、教師の態度がこれでは、生徒、保護者、教職員が一体となって実施すべき式の雰囲気は、ひどく損なわれる。
 「教職員は、指定された席で、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」。今年の卒業式を前に、都教委が都立高校などに、そう通達したのは、式に国旗、国歌を正しく位置づけるためだ。
 にもかかわらず今年の卒業式でも、混乱が続いた。
 教師が卒業式で起立を拒否するのは、高校野球の開会式で、運営に当たる大会役員が国旗に背を向けるのと同じだ。許されることではない。
 通達を拒否した教師の多くは、通達に従う義務のないことを求める訴えを東京地裁に起こしている。「通達は内面の自由を侵す」というのが、その主張だ。
 日本の国旗、国歌はもちろん、外国の国旗、国歌をも尊重することが国際的礼儀につながることを子供たちに理解させることは、学校教育の大きな目的だ。
 起立を拒否した教師は、学習指導要領で、小、中学校の社会や音楽、高校の特別活動などで求められている国旗、国歌についての教育を、どう実施してきたのか。ことは、式での振る舞いだけでなく日常の教育活動にもかかわる。
 ワールドカップでも、日の丸を振る若者が目立った。国旗や国歌に対する自然な態度が育っている。
 学校だけが社会の意識とかけ離れている。当たり前の姿に戻すべきである。

 東京都教育委員会が都立の高校や養護学校の教職員百七十六人を「戒告」処分にした。卒業式で国歌斉唱のさい起立しなかったためだが、これに対し昨日の朝日新聞は社説で『起立せずで処分とは』と異議を申し立てた。これに対して強く異議を申し立てる。
 同社説は「そうまでして国旗を掲げ国歌を歌わせようとするのは、いきすぎを通り越して、なんとも悲しい」と書く。しかしそうまでして国旗・国歌を貶(おとし)めようとする論調は、なんとも悲しい。公立学校の教師も私人としてならどんな信条をもとうと構わぬ。
 だが学校の入学式や卒業式は、教育の場にあっては大事な節目であり、欠かすことのできないけじめである。その儀式に立つ教師はもはや私人ではなく、れっきとした“公人”である。自分勝手な甘ったれは許されないのだ。
 折から東京ドームで米大リーグが開幕したが、ヤンキース松井秀喜選手はアメリカの国歌に対し、脱帽して胸に手をあてた。先日の大相撲春場所千秋楽でも、優勝した朝青龍君が代に対して起立し、やはり胸に手をあてた。モンゴル人として日本国歌に敬意を表したのである。
 外国人としてあたり前といえばあたり前の国際的儀礼だが、自国の国旗・国歌を尊敬もしない教師の行動は生徒の目にどう映っただろう。万が一にもこれを見習い、外国に出かけて同じような挙に出ればどういうことになるか。日本人として赤恥をかくに違いない。
 都教委はあらかじめ「起立して国歌を斉唱する」ことの通達を出し、それに反した場合は懲戒処分の対象になることを伝えていた。百七十六人はそれを承知していた教師失格者である。都教委が行った『起立せずで処分とは』当然の措置といわなければならない。

 東京都立高校などの卒業式をめぐって国旗・国歌の強制に反対する社説を2度掲げた(3月18、31日)ところ、思わぬ批判をいただいた。

 産経新聞のコラム『産経抄』は「そうまでして国旗・国歌を貶(おとし)めようとする論調は、なんとも悲しい」と、朝日新聞を名指しで批判(1日)。読売新聞は「甲子園では普通のことなのに」という社説(31日)を掲げ、春夏の高校野球の開会式などで行われる国旗掲揚や国歌斉唱は「国旗や国歌が、暮らしに溶け込んでいることを実感させる光景だ」と書いた。朝日新聞社が主催者の一人であることを意識してのことに違いない。
 さて、私たちの主張は何か。卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行きすぎだと主張しているのだ。それがなぜ国旗・国歌を貶めることになるのだろうか。
 戦前の経緯や思想信条、宗教などの理由で、国旗・国歌に複雑な気持ちをもつ国民がいるのは事実である。どうしても嫌だという人に無理やり押しつけるのは、民主主義の国の姿として悲し過ぎる。私たちはそう言っているのだ。
 確かに甲子園の開会式では国旗掲揚と国歌斉唱が行われ、役員、選手には脱帽を求め、観客には協力をお願いしている。しかし、処分をたてに強制などはしていない。もちろん監視員などいないし、罰則もない。現に起立も斉唱もしない観客はいるが、だからといって退場を求めることはありえない。
 だが、都教委は違う。170人余りの教職員を戒告とし、5人の嘱託教員の契約更新を取り消した。明らかに式を妨害し、混乱させたなら別だが、起立しなかったり退席したりしたことが懲戒処分や雇用機会を奪う理由になるのか。憲法が保障する「思想及び良心の自由」を侵す疑いが強いと考える。
 国旗・国歌法が99年に成立したとき、当時の小渕首相は学校での扱いについて「頭からの命令とか強制とか、そういう形で行われているとは考えておりません」と国会で答弁した。当時の野中官房長官も「強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が必要」と答えていた。この記録を生徒に読ませ、「あなたの学校では首相らの約束が守られていますか」と尋ねてみたらいい。
多民族国家の米国では統合の象徴としての国旗への思いがとりわけ強い。国旗に対する「忠誠の誓い」を生徒に義務づけている公立学校も多い。そんな米国ですら「誓い」を拒む権利は連邦最高裁が1943年に認め、同様の判例が重ねられてきた。それこそ国家が守らなければいけない一線だ、というかのように。
 しろじに あかく ひのまる そめて ああ うつくしい にほんの はたは
 小学1年生は、みんなこの歌を習う。日の丸を美しいと思う心は、強制して育てるものではない。

本質を見ることができない、大メディアの看板コラム

自分が文章を書くようになったからか、とみに感じるようになったのが、新聞のコラム・社説の質の低さだ。上の4本は全く事の本質を捉えていない。全文を転載し、晒し挙げることにする。

卒業式の本質

卒業式の本質は言うまでもなく、卒業生を祝い、激励することだ。国旗・国家に敬意を表すための儀式ではない。高校野球の本質は前にも述べたとおり試合であり、主役はあくまでも選手たちだ。
こんな基本的なこともわからず、やれ日の丸だ、国家だ、教育だ? バカか?お前らは。

日の丸を振り、君が代を歌うわけ

F1の日本GPで鈴鹿に行ってみな、グローブのKEIKOだかが開会式で君が代歌うよ。でもな? 誰一人歌やしねぇよ。聞いてすらいない。なぜだかわかるかい? 「すげぇ下手だから」いや、それも間違いじゃないんだが(笑)。そこにはF1に対する畏敬の念も、選手を励ます気持ちもこもっちゃいないからだ。でもな、もし佐藤琢磨が今度の鈴鹿で勝ってみろ、サーキット中が日の丸で埋め尽くされ、君が代が高らかに歌われるだろうよ。
普段普通に生活して、普通に日本が好きな連中ってのは、みんなわきまえてるよ。読売は「学校だけが社会の意識とかけ離れている。当たり前の姿に戻すべきである。」なんて言ってるが、こういうときなんて言うか知ってるかい?オマエモナー」

日の丸・君が代をおもちゃにするな

上の社説を書いた者の中に、例えば祝日には日の丸を掲揚するような人間が一人でもいるだろうか?いるはずがない。なぜなら、彼らにとって日の丸・君が代は「論争」するための「おもちゃ」であって、そこには敬意など存在しない。彼らが内輪で「トラックバックごっこ」をするのは勝手だ。だが、そのつまらん遊びに前途ある若者を巻き込むな、バカ。

毎日も参入してたので


 東京都教育委員会は、都立学校の卒業式で、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよなどとする校長の職務命令に違反したとして、都立高校教員ら170人余に、戒告処分や退職後の再雇用合格の取り消しをした。
 いささか、強引に過ぎるのではないか。文部科学省の調べでは、卒業式での国旗掲揚率、国歌斉唱率は100%近い。それなりに定着している中で、都立学校が突出して混乱しているのは、都教委が独自の通達を出したためだ。
 通達は、(1)舞台壇上正面に向かって左に国旗、右に都旗を掲揚する(2)教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する(3)舞台壇上で卒業証書を授与する(4)式典会場は児童・生徒が正面を向いて着席するよう設営する−−など、かなり厳密だ。しかし、学校や会場の都合で違う方式にするのは、許されないことなのか。
 卒業式は、生徒の卒業を祝い、前途を励ますためのものだ。在校生や教師、父母らが、それぞれの学校の特色や校風をもとに、どんな式にするのか知恵をしぼり、心をこめて卒業生を送り出すことが何より大切だ。
 国旗を掲げ、国歌を歌うこと自体が式の目的ではない。都教委は今回、職員を派遣して掲げ方や歌い方を細かくチェックした。果たしてそこまでムキになることなのか。教育の本質とは離れたところで不毛な空中戦をやっているように思えて仕方がない。
 学習指導要領は、「入学式や卒業式などにおいてはその意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定めている。99年に制定された国旗・国歌法が、それを後押ししている。
 しかし大事なのは、当時の国会論議でも小渕恵三首相らが述べたように、個々人に強制するものであってはならないということだ。日の丸・君が代は戦前の経緯もあり、争いのあるテーマだった。特に君が代には、抵抗感を持つ人も少なくない。思想・信条にもかかわることであり、その自由は保障されなければならない。
 学校においても、基本的には同じだ。学習指導要領の規定について村山富市首相(当時)は、「児童・生徒の内心にまで立ち入って強制する趣旨ではなく、あくまで教育指導上の課題として指導」との見解を示している。
 都教委は生徒が集団で起立しなかったり、歌わない場合は担任教師を処分する方針も打ち出したがこれは明らかに行き過ぎだ。
 教師については政府は、国旗・国歌法制定時から「国旗・国歌の教育指導は教職員の責務であり、従わない場合は、地方公務員法に基づき懲戒処分を行うことができる」としてきた。公務員にも内心の自由はあるが、政府見解の通りだとしても、起立しないことをもって処分し、事を荒立てるのは、決して好ましいことではない。
 都教委の通達で、日の丸・君が代に対する愛着が深まる、教育がよくなる、とは思えない。もっとほかにすることがあるはずだ。