新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

世の中は暴力でしか変化しない

叩いたらしょんぼりしそうなチンカス野郎のエントリに対してなんか書いてみる。ワシみたいな「怖い人」がトラバ投げても大丈夫かねぇ…

だいたいテロなんてしょぼっくれたもんが革命だあなんて、ちゃんちゃらオカシイ。だいたい、奴らの矛先は政府や軍じゃなくて、武器を持たない人たちに向いている。
(中略)
なんでまたてらじさんはテロと暴力をごたまぜにして語っているんだろう?

じゃあテロルを許せと?: チラシの裏の走り書き

さて、どっかのチンカスさんがなんだかチンカスなことを言っている。
だいたいテロと革命、あるいは暴力が別もんだあなんて、ちゃんちゃらオカシイ。だいたい暴力ってのは、その結果によって正当化される。何十万人の民間人を虐殺しようが、アメリカは正義だ。勝てば官軍、負ければテロ。それだけの差なのだ。
暴力に良いも悪いもない。あるのは勝つか負けるか、強いか弱いか、自分にとって都合が良いか否かだ。日本にとって都合がいいからアメリカの暴力を「世界の警察」とか呼び、都合が悪いから北朝鮮を「テロ国家」などと呼ぶ。教師や親にとって都合が良いから「校則」という暴力で生徒を縛る。

暴力

極論すれば、世の中は暴力でしか変化しない。Googleは既存のマスメディアへ大暴力をふるって「革命」を実行している。新しいものを生み出す力とは、古いものにとっては暴力なのだ。
その暴力を支持するのが民衆だ。民衆は常に現状に不満を持ち、英雄の出現を待望している。「痛みを伴う構造改革」などという暴力を支持したのは、他ならぬ民衆自身なのだ。民衆は暴力が自分に降りかからない限り、それを支持する。少なくとも対抗するようなことはしない。しかも自分自身に暴力の矛先が向くとは考えない。そして、例え眼前に暴力と対峙しても、誰かが助けてくれる、代わりに戦ってくれると思っている。だから軽々しく「許さない」なんて言えるのだ。自分は安全地帯にいて、遠くから「許さない」。これこそが最も卑怯な「暴力」ではないのか。
長崎市長が殺されて「許さない」と言えるのは、代わりに立候補し「俺を殺してみろ」と演説し、選挙に勝ち、平和都市長崎に相応しい施政を行うことが出来る者だけだ。

つまり何が言いたいかというと

「怖い人」って言うな!