新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

開かれた新聞:委員会から 12、1月度 JR羽越線転覆事故の社説をめぐって

風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ。の続き。


 12月25日に山形県庄内町で起きたJR羽越線の特急脱線転覆事故を扱った毎日新聞の社説「安全管理で浮ついてないか」(12月27日朝刊)が「風の息づかいを感じていれば、事前に気配を感じていたはずだ」と指摘したことなどに対し、読者から多数の批判意見が寄せられた問題を中心に取り上げます。

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 ◆JR羽越線転覆事故の社説をめぐって

 ◇12月27日社説該当部分

 現場付近の風速は毎秒約20メートルで減速規制するほどでなかったというが、平時と同じ時速約100キロで最上川の橋梁(きょうりょう)を渡ったことに問題はなかったか。突風とは言いながら、(運転士が)風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ。暴風雪警報下、日本海沿いに走るのだから、運行には慎重であってほしかった。

 ◇読者から「非科学的すぎる」と指摘

 社説「安全管理で浮ついてないか」の内容や表現に関して、読者の方から「非科学的すぎる」などといった意見が集中しました。毎日新聞は常々、社説でも一般記事でも(1)高みから見下ろして一方的意見を押し付けない(2)独りよがりの記事は避ける−−ようにしています。

 ◇責任追及優先の精神風土反映、構造分析取り組み未熟−−柳田邦男委員(作家)

 日本の精神的風土の中では、事故の構造的原因を技術的・論理的に分析する事故調査と責任者を追及する刑事捜査・行政処分などの過失責任論とが明確に分離されず、責任追及の発想が優先され、科学性をもった構造分析の取り組みが未成熟だ。今回の社説は、そういう文化状況が論説委員のモノの見方にまで浸透していることを示す典型だ。投書で批判された社説中の文章や表現への疑問は、正鵠(せいこく)を射ている。

 「風の息づかい…」の主張については、運転士に「事前に気配」を感知する能力を求めるというむちゃな要求を突きつける主張になっている。自分が運転士の立場になって、吹雪の中を走る運転席に座った時、社説のような感知能力を持てるだろうかと考えるなら、この主張は科学的に無理だということに気づくだろう。

 また、社説は「五感を鋭敏にして安全を確認するのが、プロの鉄道マンらの仕事」と指摘している。精神訓話としては耳によく響く言い方だが、あいまいで安全対策にほとんど役に立たない。当事者は、そこから具体的な教訓や対策の手がかりをつかむことができない。

 ◇記者の高ぶり、当然表れる 学者の論文ではない−−吉永春子委員(テレビプロデューサー)

 突風下の列車運行に関する読者の指摘も一部当たっていると思う。しかし、山形・庄内に暮らす住民から見れば、「今日は突風がありそうだ」など、ある程度の予測はできたのではないか。筆者がそれを「風の息づかい」と表現したとすれば、その点は理解できる。ただ、過去の同様な列車事故がどれだけ教訓として生かされているかについて、もっと掘り下げているとより説得力があった。社説は、学者の論文ではない。日々のニュースに接して、感情が高ぶったり、憂慮したりする記者の心が当然表れる。社説に冷静さのみを強調し、求めるのは誤りではないかと思う。

 ◇「社」の立場の制約、思わぬ逸脱 無署名の危うさ自覚を−−玉木明委員(フリージャーナリスト)

 社説は「社」の「説」であって、論説委員の「私」の「説」ではない。筆者は「社」の立場を仮構し、そこに身を移して書くことになる。その作法上の制約から思わぬ逸脱も生まれる。

 「風の息づかい…」というような文章には違和感がある。筆者が気づかなかったとすれば、「社」の立場で考えているからに違いない。JR関係者、運転士を断罪する文脈が目立つのもそのためだろう。社説(無署名記事)の危うさには、よほど自覚的でなければならない。

 ◇筆者の怒りは伝わったが、確かな現場感覚が必要−−田島泰彦委員(上智大教授)

 顔の見えない無味乾燥で角の取れた社説が多い中、書き手の怒りや息づかいが伝わってくる珍しい社説だが、多くの批判が寄せられているように、正確な事実や科学的な論拠に欠け、感情的、独断的な議論や、現実とかけ離れた精神論になってしまっては説得力をもつことができない。優れた社説を生み出すためには、熱い思いを支えられる、豊富な取材経験で培われた確かな現場感覚と知識が求められるのではないか。また、論説内部の相互批判など、チェックのあり方も検討が必要だ。