新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

耳をすませばネタ2つ


 ◇商店主や学生ら、来月からラリー、上映会など
 アニメ界の名監督、宮崎駿氏がプロデュースした映画「耳をすませば」(95年7月15日公開)が封切りされて間もなく10年になるのを機に、映画の舞台とされた多摩市北部の京王線聖蹟桜ケ丘駅周辺の商店主や多摩大学の学生らが「『耳をすませば』の町おこし」に乗り出した。7月から「モデル地探訪ラリー」や無料上映会などを行う。
 「耳をすませば」は、柊あおいさんの漫画作品を、宮崎氏の片腕として知られた近藤喜文氏(98年死去)が監督を務めてアニメ化した。読書好きの女子中学生、月島雫(声・本名陽子)と、バイオリン職人の修業を決意する同学年の天沢聖司(同・高橋一生)の心の交流を描く。
 制作を手がけたスタジオジブリ広報部(小金井市)によると、舞台の新興住宅地は聖蹟桜ケ丘駅周辺と近隣の多摩ニュータウンを参考にした。作品では、実際にある坂や丘にそっくりの風景が出てくる。
 公開後は「『耳をすませば』のモデル地」として、熱烈な宮崎ファンが全国から訪れ、記念撮影スポットができるなど人気を集めていた。作品にあこがれて多摩市の多摩大学に入学した経営情報学部3年の鴨川美紀さん(22)らが今年2月に上映会開催を地元商店会に持ちかけたのを機に、「耳をすませば」を生かした町づくり計画が浮上した。
 「モデル地探訪ラリー」(先着1000人)は7月10日午前10時に同駅西口交番前をスタートし、いろは坂や街が一望できる公園など6地点(約2キロ)をたどる。同17日は多摩大学の学生らを中心にしたロケ地ツアーや永山、関戸両公民館、多摩中学校での無料上映会などを開く。12月4日午後2時には関戸公民館で主題歌「カントリー・ロード」を歌った本名さんを招くコンサートも。
「アニメに出てきたシーンを再現する」ってのが流行しているのだろうか。気持ちはわからないでもないが、やめておいた方がいい。ほとんどの場合「がっかり」することになるからだ。アニメの中の世界は、自分の脳内で妄想するに限る。いくらでも美化できるからだ。思い入れが強いほど、幻想が壊れた時の幻滅感も強い。

77 :名無シネマ@上映中 :04/03/13 07:40 id:fKowQvRn
あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。実際には、現実には、絶対にありえないことを、思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、反則以外の何物でもない。
ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。
例えば、漫画「奇面組」や「彼氏彼女の事情」など。初めからネタの世界でしょう。手塚治虫先生の世界でいえば、「ヒョウタンツギ」の登場により、読者は救いを得られる。ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。
このアニメ作品には、それらが一切無い。見ている者は、最初の導入から始まり、この映画は日常の世界として知らず知らずにこの世界に入ってしまう。そこから、恐るべき侵食が始まっている。最後まで完璧な日常の世界として描かれているこの映画は、最後まで見たものを恐ろしくも洗脳させる。
そして、見た者は大いなる錯覚をする。
「これが、本来の現実の世界ではないのか」、と・・・
そこに描かれているものは何だろう。高校にも行かずに留学してバイオリン作りを目指す彼氏?親や先生や同級生に何ひとつ反対されずに壁にも遭遇せずに夢を目指す彼女?その二人による、あたりまえのように描かれているありえない恋愛の世界?
「いいなあこんな学生生活」
「これが本来あるべき学生生活だったんだ」
「すると俺の学生生活ってなんだったんだろう」
そして、見たものの中に、本来では「ありえなかった現実の世界」が正当化され、従来の「あたりまえだった現実の世界」が否定される。本来持っていなかったものをまるで持っていたように錯覚させ、それを否定される。こんな残酷な作品は無い。
「現実を錯覚させる」ことがそもそもの悪であり、「現実を否定させる」ことはもっと悪である。これを作った人は、世の中の人たちにとって、悪である。映画史上、こんな罪作りな作品は、他に無い。
まぁ細部に突っ込みどころというか、ほころびはあるが、言いたいことはよくわかる。普通の感覚を持った人ならば「こんなんあり得ん」って思う映画だ。だからこの映画を好きだと言う人は、とても純粋なことが多い。逆にかなりヘビーな境遇にある女の人が、ちょっと照れくさそうにこの映画を好きっていうこともある。「救い」ってのが何を指すのかわからないけど、それなりに救いにはなっているのだろう。
救いがないのは、大部分の人にとってつまらないであろうこの映画が「宮崎・ジブリ」の名前のせいで過大評価され、ピュアであるが故にそれを批判する人がピュアでないかのように言われることだろうな。