宮崎人の意志を洗い出す
宮崎の人とつきあってると、この人たちには「意志」があるのか?と不安になることがある。いつも受け身、待ちの姿勢。文句だけは一人前。大嫌いな人種だ。
繰り返し、繰り返し、
自分を支えたのは、「意志」だと思う。「意志なんか持つから孤独になるんじゃないか?
自分の意志なんか捨てて、人についていけば、
孤独にはならない」と思ったことも何度かあったが、
4年を経て、それは、やっぱり違うと思う。自分の「意志」がないことには、
共感者や理解者を見つけることさえ、
結局は、はじまらない。「意志」と言われると、なにもないと不安になったり、
なにか、立派なもののように思って、敬遠する人もいる。でも、意志がないと思う人も、
「不満」ならあるのではないか?
では、それを変えられるとしたらどうしたいか?
そこに、「意志」が生まれる余地はある。たとえば、私の場合は、いまの世の中を見渡したとき、
人々が、「自分の頭でものを考える」という場面が、
ちょっと少ないと思う。
それが、ちょっとだけ不満だ。もうちょっとだけ、みんなが、
「自分の頭でものを考える」ようになったら
自由だ、と思う。
だから、「考える技術」や「動機づけ」を、
「教育」という立場でやっていこうとしている。
それが、私の「意志」だ。
こういう連中を私は切り捨ててきた。
「自分じゃなにもせんくせに、文句ばっか言いやがって」
だって、そうじゃないか。私は不満を意志に変えてきた。でも、お前らはただ文句言うだけだ。
そうかもしれない。だが、私は教育者ではない。だけど、私が何かやるたびに「自分もやらなきゃ」とか「やる気出た」とかいう反応があった。
アレだな。文句言うやつは思考停止して丸投げしてるだけ。
文句受けるほうも思考停止して切りすててるだけだから、つまり同じなんだよな。
なるほど。つまりはそういうことか。意志は持つだけではなく、示し続けなければ共感者や理解者、そして協力者を得ることはできない。だから今は虚空に向かって叫んでいる気がしても、続けなければならないのだ。