新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

トリビア『魔女の宅急便』

昨夜、魔女の宅急便をやっていたそうなので、今日使えるクソ知識を。

  • 冒頭、主人公キキの母のところへクスリをもらいに来る老婦人の名は「ドーラ」で、言わずと知れた『天空の城ラピュタ』の海賊のボスと同名。
  • 鳥かごに入ったネコのぬいぐるみを届けた家のカナリアの名前は「ピッチー」で『アルプスの少女ハイジ』の小鳥の名と同じ。
  • キキと森の中に住む画家「ウルスラ」の女性の声優は同一人物で一人二役。つまりキキの成長した姿がウルスラなのである。さらに成長した姿がパン屋の「オソノ」であることはいうまでもない。
  • 物語の途中、魔力が弱まり、母にもらったほうきが折れてしまうのは、親の庇護からの独り立ちを暗喩している。それまで親の力で飛んでいたキキがデッキブラシで飛ぶシーンは、まさに独り立ちの瞬間なのである。
  • 宮崎作品に登場する少年少女には親、特に母親がいないことが多く、この作品でも冒頭で親と離れてくらすことになる。しかし、このように彼女らは大人たちに見守られて成長してゆく。だからこそ、我々は宮崎作品を観てしまうのだ。
  • ところが最新作『千と千尋の神隠し』では、大人は見守る存在ではなく、直接的に助けてしまう。主人公「千尋」は様々な困難に直面するが、ほとんど自分の力で解決していない。かおなしや釜爺にえこひいきにされたり、ハクや同僚に助けられたり。何をやってもグズでノロマな千尋が、突然タスキがけまで出来るようになる。ご都合主義のオンパレードである。これは「そうやってうまく世の中渡っていけよ(藁)」という作者の皮肉なのだろうか?
  • アカデミー賞かなんかの授賞式で、反戦メッセージを唱え、持ち前の左翼思想を披露する絶好のチャンスだったのに、それを辞退する。ヘタレっぷり、ここに極まれり。作家は作品で語るべき? だったらプレスリリースやらパンフレットで作品を語るのはやめたらどうだ? 映画を観なくても、何が言いたいのか全部わかるので便利ではあるがな。
  • 全く観るべきモノのなかった『千と千尋』があちらこちらで大絶賛。「日本の文化」とまで言い出す始末。彼はとうの昔に終わっていたが、観客まで終わってるとは。
  • 実は宮崎では『金曜ロードショウ』は放映されていない。
  • というか、筆者はテレビを持っていない。
  • よって『トリビアの泉』も当然見たことがない。

( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー