新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

「キモチイイコト」


動けないような人には、熱いタオルで足の指のまたと、首筋を拭いてあげるだけでもさっぱりした気持ちになる。フットマッサージはとても効く。気持ちがほぐれる。身体の痛いところをさすりあったり、背中を叩きあったり、それだけでもずいぶんと血行がよくなる。お互いの身体に接触するのはとても大事なことだ。
私が「彼女」を意識することになったこの文章を思い出した。

ある時、別の介護者の友人から
「ぐたぐた考えないで、気持ちいいだろうって思うことをやってやればいいのよ」
と言われた。なるほど、と思った。自分が気持ちいいことをまず知ればいいんだな、と。
それで私はその友達の家に行って、自分が介護してもらったのだ。実際に自分が障害者になったつもりで体を拭いたり洗ったりしてもらった。そしたら意外な発見があった。たとえば、足の指の又をていねいに拭いてもらうと、すごく気持ちいいのだ。それから、肺の上に熱いタオルを乗せられるとめちゃめちゃ気持ちいいのがわかった。手を拭くときも、指と指の間を丁寧に拭いてもらうと気持ちいい。頭のてっぺんを冷たいタオルで冷やすと気持ちいい。首の後ろに熱いタオルをあてられると気持ちいい。気持ちいいことがいっぱいわかったんだ。
さっそく自分が気持ちいいと思うことを、彼女にもしてあげた。すると、彼女はお風呂に入りながらすごく満足気に「アア、イイキモチ」と言うのだよね。その「アアイイキモチ」を聞いた時に、私もとてもいい気持ちになった。
そのとき私は、ふと思ったのだ。そうか、私は人の苦しみは理解できないけど、いい気持ちはわかるなあ……って。
苦痛は、あまりにも個別で多様で、それを共有するためには深い愛が必要になる。それはもう私には手にあまる。苦しみを共に生きることは、宗教的とも言える覚悟が必要なのだと思った。だけど、気持ちいいことなら、苦痛よりは共有できる。
それから私は、日常の介護の中で「なにが気持ちいいか」だけを考えるようになって「相手の苦痛を理解しようとする試み」相手の「痛みを理解する試み」をやめてしまった。やめたときにやっと、自分が解放された。奇妙な罪悪感から逃れられた。
それまで辛かったのだ。なにが辛かったのかわからないけど、介護に通うのが苦痛で苦痛でたまらなかったのだ。できもしないのに他人の苦悩をいっしょに担おうとしていた。あたりまえのことだけど、私はキリストにはなれない。
(中略)
でも、体のどこを拭いてもらうと気持ちいいかは知っている。手がべとべとに汚れた時、どこを拭いてもらうと「きれいになった気持ち」になるかわかる。拭くポイントというのがあるのだ。私が気持ちいいこと、は案外誰でも気持ちいいようだ。
「違い」を理解するためには、自分を痛めつける。それには限界がある。でも「心地よさ」を知ることは苦痛じゃない。それはただ、自分らしくあればいいだけだから。「気持ちいいこと」を知ることは、あなたと私が「同じ喜びをもてる」という可能性につながる。つまり、友達になれるかもしれない、という可能性。
そして、その先に「違い」がある。最初から「違い」を理解しようとすると、「わからない」という迷路に入ってしまうんだな、と思った。
ふと、また死んだ彼のことを思い出す。私は彼のためにたくさん言葉を吐いた。彼のためにたくさんのおせっかいを焼いた。だけど本当は、私が気持ちいいと思うことを、ただ彼にもしてあげればそれでよかったのかもしれない。私が気持ちいいこと。背中をなでてもらうとか、肩をもんでもらうとか、黙って話を聞いてもらうとか、自分のよいところをほめてもらうとか、好きだと言ってもらうとか、誕生日を覚えていてもらうとか。そんなことだったのかもしれない。
とてもたあいない、気持ちいいこと。それが自然とできたなら、と思う。でも、そのためにはまず、自分の気持ちいいことをたくさん発見しなければ。意識するまで、私は意外なほど「キモチイイコト」を知らなかったのだ。
この文章を読んだとき、「このランディってヤツ、なんで男なのにこんな文章が書けるんだ?」と思った。その時まで、ランディは男だとばかり思いこんでいたからだ。だって、女のかける文章でも無かったし。その後、彼女の文章をずーっと追いかけることになり、現在に至る、ってわけだ。