新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

世紀末な大晦日

 1998年の大晦日のテレビ欄を見て「おおっ」と目を見張ってしまった。午後6時半から12時近くまで、特番で「超能力」と「ノストラダムスの予言の検証」が並んでいるのだ。ひところテレビの世界からすっかり消えたかに見えた「超常現象番組」が、世紀末にきてにわかに復活している。

 6時半からの番組は、最近高視聴率をマークしているフジテレビ「奇跡体験!アンビリーバボー・驚異の新世紀へアナタも超能力SP」で、5年ぶりにテレビ出演するスプーンまげの清田君をメインに押し出している。そして、9時からは、やはり「たけしのTVタックル」の特番「ビートたけしの世紀末ノストラダムス大予言」。ノストラダムス肯定派と否定派に分かれての、〈いつもの〉大バトルだ。

 不思議なのは、どちらもビートたけしの番組だということだ。少なくとも両方の番組ともビートたけしが企画に加わっているはずだ。ビートたけしは、もしかしたら今、超常現象に興味をもっているのではないか、と思った。比較的多くの人が超常現象に興味をもつきっかけ、あるいは自分が超能力のような力をもつきっかけとして「臨死体験」をあげている。

 ビートたけしも、バイク事故で生死の境目をさ迷った。もしかしたらその時の体験以降、彼になんらかの変化が起こっているのではないか、とすればビートたけしの言動は要チェックだな、いつもの癖でゲスの勘ぐりをめいっぱい膨らませながら私はテレビ欄を熟読する。

 なんにせよ、これは見るしかない。というのも、清田益明さんも、それからTVタックルに出演予定になっている秋山眞人さんも知りあいである。友達などと言うと、おこがましくて口が腐るが、顔を見知っていて話したことのある間柄。知りあいがテレビに出ているとなれば見たくなるのはミーハー人情というものだ。

 それにしても、テレビ嫌いの清田さんを、フジテレビのディレクターはよく口説いたなあと思った。清田さんのテレビに対する不信感、嫌悪感は相当なものだった。以前にソニーエスパー研究室主催の忘年会でスプーンを曲げた時も「テレビ関係者は出てってくれ」と言っていたくらいだから。

 久しぶりに見た清田さんは、テレビ向けにお洒落にキメていた。私が知っているのは頭にバンダナを巻いて汚いジーパン姿の時代遅れのロッカーみたいな清田さんだ。画面の中の清田さんは別人のようだった。そしてスタジオに登場した清田さんの目の前にはすぐさまスプーンが用意された。

 「俺の行く先ざきには、必ずスプーンがついて来る。冗談じゃない、俺はスプーンなんか見たくもないんだ」以前、彼はこんなふうに言っていた。しかし、彼の行くところスプーンは必ずある。しょうがない。彼は「スプーン曲げ芸人」の道を選んだのだ。

 

●テレビではインパクトが弱い〈ほんもの〉の超能力

 私は目の前15センチのところで、清田さんが力を加えずにスプーンを切断したのを見たことがある。その時はものの3分もかからずにあっけなくスプーンは切れた。彼は切断部分に触れもしなかった。しかし、スタジオではやはり彼の超能力はうまく発揮されていなかった。7分が経過しても、スプーンはあまり変化しない。

 「曲がらない、と信じる人間がいればスプーンは曲がらないように変化するんだ」とも清田さんは言った。「曲がれ」と思ってスプーンが曲がるのなら、その逆もまたありえるのだろう。そして「曲がるわけねよ」と思っている人間の中にいて、やはりスプーンは曲がらなく変化する。

 「俺が言いたいことは、たったひとつなんだ。人間はね、強く思えば、イメージすればなんだって変えることができる力をもっているんだよ。俺はスプーンを曲げたくなんかないんだ。スプーンなんか曲げたところでなんにもなりゃしない。だけど俺が伝えたいのは、イメージする力のことなんだ」

 以前に彼はそう言った。もちろんテレビの中ではそんな話はあまり出なかった。

 お決まりの「脳波検査」が行われた。いったい清田さんはこの脳波検査をこれまでに何回受けたんだろう。α波が強く出ていることが立証される。だからどうだと言うことはない。進行役は所ジョージで、彼はとても優等生に番組を進行した。結局のところ無難に、つまりは気の抜けた番組に仕上がっていた。

 超能力もしょせんは人力だから、その人の体調で時間がかかったりダメだったりする。必ず結果が出るというものでもない。体操競技みたいなものだ。だから生番組で結果を出させようとすることには無理がある。それでも清田さんはがんばっていた。

 いっそのこと、本当は超能力者のマジシャンになってしまったらいいのに、と思った。みんながマジックだと思っている。でも本当は超能力者なのだ。さすればプレッシャーはないし、ネタも絶対にバレない。そのほうがかっこいいのに、と酒を飲みながらテレビに映った清田さんを見る。

 清田さんは所ジョージを念写していた。でも、テレビを通して見る〈ほんもの〉の超能力は、インパクトが弱かった。バーチャルな世界で〈特写〉を見慣れている私には、それが〈ほんもの〉であるかどうかなんて実はどうでもいいことなんだ、という気がした。恥ずかしいけど、私がテレビに求めているのは〈刺激的な映像〉なのだ。

 さて、9時からの「ビートたけしの世紀末ノストラダムス大予言」、こっちにはあの「ユリ・ゲラー」が出演した。この人は長年に渡って「超能力」で生きているだけあって、その迫力やエンタテイメント性、サービス精神など、どれをとってもさすが、という感があった。出てきただけでその場を圧倒する。

 磁石を回す、種を発芽させる、これらの〈芸〉を私は過去にも何回か見た。それが本当に超能力であるかどうか、よりも、私はこの時にユリ・ゲラーが見せる「どうだ!」という気迫。「やってみせるぜ」という前向きな気迫に心打たれる。それが仮に演技だとしても、見ているだけで気合いが伝わってきてなんだか元気になるのだ。

 私はこんな気合いを入れて物事に立ち向かったことが最近なかったなあ、でもなんかやるときはこれくらい気合い入れないとできないよな、そんなことを考えながら彼を見ていた。もちろん磁石は回ったし、種は発芽した。

 

●「私を信じさせてくれ」

 超能力否定派のゲストの一人がユリ・ゲラーに挑戦するようにこんなことを言った。
「よかったら、私が超能力を信じるようになるように、今、念を送ってもらえませんか」
そのときユリ・ゲラーはこう答えた「私は闘いは好まない。あなたが超能力を信じるかどうか、それはあなたの問題であって、私の問題ではない」

 この言葉に、ひとつの答えがある。この否定派のゲストは「私を信じさせてくれ」と言っているのだ。否定する人はだいたいこう言う。「本当にそんな力があるのなら私を信じさせてみろ」。しかし、たぶんそれはユリ・ゲラーの言う通り「あなたの問題」なのだ。今、目の前に起こっていることをどう認識するかは「自分の心の問題」であって、信じるために他人に依存するのはオカド違いなのである。

 否定派のゲストは5人いたのだが、一人異彩を放っていたのは野坂昭如氏だった。他の否定派のゲストは「それはインチキだ」という否定派なのであるが、野坂氏は違うのだ。野坂氏の言い分は「それが超能力である必要がどこにある」というものである。

 「人間はやろうと思えばなんだってできるんだ。なんで超能力だのノストラダムスの予言だのそんなものをわざわざ借りてきて未来を考えなきゃいかんのだ。もっといくらだって他の方法で未来を考えられるだろうが」つまり野坂氏にとってノストラダムスの予言が本当だろうが嘘だろうが、どうでもいいのであり、彼が問題にしているのは常に「今、自分がどう等身大で生きているか」なのである。

 そして、似たようなスタンスがビートたけしにもある。それは他の否定派のゲストと全く違う次元の思考なのだ。それゆえ、他の否定派のゲストの言うことはどこか揚げ足取りでへ理屈で人を不愉快にさせるのに、野坂氏とビートたけしの発言は、ユーモラスでありながらある広がりをもって語られるのだった。

 野坂昭如ビートたけしから感じる、不思議な印象。それは番組の間中、私をテレビの前に釘付けにした。他に人間には興味がもてず、ひたすら二人だけを見ていた。特にビートたけしが画面に映ると私は彼をずっと見ていたくてたまらなくなるのだ。猛烈な吸引力を感じる。私のなにかを刺激するのだが、それが何なのかさっぱりわからない。

 番組の途中、ついに超能力肯定派秋山眞人氏が怒りの退場をしてしまった。「ノストラダムスの予言の研究者が実際に的中させたいくつかの予言についてどう思うのか」と秋山氏が質問したのに、否定派のゲストはのらくらと答えをはぐらかしたのだ。

 秋山さんの最後の発言がおもしろかった。
ノストラダムスの予言が何世紀にも渡って語り継がれこうして問題にされるのは、人々のなかにかすかな予知の力のようなものがあって、それが世紀末になにかが起こることを察知しているからではないか。だとしたら、ノストラダムスの予言をきっかけに、もう一度いろんな問題を再検討してみる価値があるのではないか。これが本物かどうかではなくて、人類がこの予言をいままで語り継いできたということになんらかの意味がある。予言とはそういうものではないか」

 さらに彼は退場する際に叫んだ。「江戸時代に、我々のように予知能力をもっている超能力者の集落があった。しかし、そこは時の権力者に焼き払われた。権力はいつもそうやって超能力者を迫害してきた。俺はユリ・ゲラーが最初に来日したときにテレビの前でスプーンを曲げた。なのになぜ自分がこんなに否定されなくちゃならなんだ」

 秋山氏の発言は他のゲストにあるショックは与えたろう。けれどもそれまでなのだ。それは彼の個人的怨恨の爆発にすぎない。超能力者として迫害を受けた思春期の傷をたぶん彼はいまだに負っているのだ。秋山氏は優れた予知能力をもっているらしい。私はそれを知らない。聞いたことがあるだけだ。でも、だとすれば彼が感じているなにかしらの危機感を他者に伝えるために〈個人的恨み〉は邪魔だ。それは言葉をゆがめるから。

 

●未来とは今なのだ

 それにしても秋山氏の言う通り、今、いったいななんで「超常現象」なのだろう。1998年の大晦日に6時間に渡って超能力の特集を組ませたビートたけしの意図はなんなんだろう。単なる視聴率稼ぎ。単なる偶然なんだろうか。もちろん1999年が特別な年であることは日本の誰もが感じていて、それをテレビ局が利用しただけだと言えばそれまでなのだが。

 番組の最後に締めくくりの言葉としてビートたけしがこんなことを言った。
「俺はね、たとえ何が起ころうとも自分がこの世紀末に立ち会えたということが、まずうれしいね」確かに、私たちは1999年を体験できる栄誉を与えらたと言えなくもない。本当に何かが起こるのかどうか気にしながら結果を知らずして死んでいった人もたくさんいるわけだから。

 さらにビートたけしは続けた。「未来というのは結局この一瞬一瞬の積み重ねなんだ。この今の延長に未来がある。遠い未来もこの瞬間の積み重ねなんだよな。だから、今、この瞬間から別の行動を起こせば、未来は変わっていく。この瞬間から違うことすれば、未来なんて変わるんだ、そう思う」

 ビートたけしは自分が願えば運命を変えることができる、そのことを確信しているのだ、そう思えた。未来は自分が選択するものだ、という強い意志が感じられた。未来とは今なのだ、と。すごいな、今と未来は相似形なんだ。そのことをビートたけしは1998年の大晦日に言ったのだ。

 信じるという行為はとても難しくて、私には途方もない。私には信じているものなんかあるんだろうか、と不安になる。自分すら信じていないような、でも、確信を持って自分が何かを決断するとき、やはり私は何かを信じて動く。けれどもそれは一瞬のことで、信じるという行為はいつも私を逃れて遥か高みに存在する。まるで神様のようだ。

 私はね、占いとか、霊感とか、超能力とかそういう類のものはね、信じるものではなくて、感じるものだと思うのだよ。それらは「インスピレーション」なのだ。「インスピレーション」なんてものは、イメージなんだよ。

 今この瞬間に目の前で不思議なことを見る。それを言葉にとらわれずに、自分の「感じ」を大切にして、ぼんやりと受け止めてみることを、教育がそぎ落としている。理論的に検討するのは後でもできる。「感じ」を抱きしめてみることが大切なんだと思う。

 信じることに捕らわれてしまうと、感じることを逃してしまう。ぼんやりと感じる。ぼんやりとした感じを、ぼんやりと抱きしめてること。そこに存在しているのはまぎれもなく「感じている私」だ。感じることは「自分を生きる」ことにほかならない。とても主体的な行為なのだ。信じることは対象を必要としてしまう。しかし、感じるとき人は自分さえそこに存在すればいいのだ。それこそが生きる力になる。そして「信じるもの」をつかまえるためには、感じることがとても大切なのだ。でも、感じることと信じることは全然違うのだ。

 自分の心を開いている時に、人はもう何かを受け取る心の準備ができてる。だから、露草の群生、イワシ雲、風に揺れる風鈴、一葉の銀杏、森羅万象すべてからメッセージを受け取ることができる。それが、今この瞬間を生きる力なんだと思う。確かに世の中は、いろんな嘘や、霊感商法や、自己啓発セミナーやら、占い、呪い、百花繚乱で何を信じていいのかわからない状態だけど、別に信じなくたっていいではないかと思うのだ。

 最初から信じたり、求めたりするから、騙されたり、損したりするわけで、そうではなくてただ感じてみれば、不思議と心安らかなのではないだろうか。ユリ・ゲラーが手の平にのせた種に向かって「芽を出せ!」と気合いを入れて叫んだ時、私はなぜか「となりのトトロ」というアニメのワンシーンを思い出していた。

 子供たちがお化けのトトロといっしょに、庭のどんぐりを発芽させるのだ。〈願うことによって種が発芽する〉このイメージが人間に与える力のなんと強いことたくましいこと。自然現象はイメージと結びついて人間に生きる力を与える。信じなくていいのだ、そのイメージを感じればそれは生きる力になっていく。

 ビートたけし野坂昭如、この奇妙な二人はイメージを感じることを知っているように思えた。そしてイメージを感じる術を知っている人は、どんなものも自分の力として取り込んでいく。言うなれば「人生丸儲け」みたいな人たちだ。二人はユリ・ゲラーの超能力に対して「よくわかんないけどおもしろい」というような表現をした。スタンスに関係なく、出会ったものを感じてしまえるのだ。それでいいじゃないか。

 不思議な体験からイメージをもらう、おもしろさを楽しむ、自分を感じる。そういうスタンスで超常現象を扱える司会者は今まで存在しなかった。だから超常現象番組はくだらないかおどろおどろしいか、そのどちらかで発展性がなかったのだ。そうではないつきあい方があるはずだ。私はいま、その可能性をビートたけしに見ている。

世紀末な大晦日 - MSN ジャーナル